ファジュルのアザーンは独特です。
アザーンの文句が一つ多い、ということではなく、あれが街中から流れてくる時というのが、独特の雰囲気を持っています。
眠っている時にファジュルのアザーンが聞こえてノロノロ起きだす(起きないけれど)、という場合は、それほど不思議でもないかもしれません。気になるのは、何かで夜明け近くまで起きていてしまい、目覚めたままファジュルのアザーンを聞く時です。
夜が永遠に続くかのような気持ちでいたところに、ファジュルの第一声が聞こえ、連鎖するように街中にアザーンが響き渡る。野良犬が吠え出す。声と声が、地の底から這い上がるようにうなりながら登っていく。
あの音を聞くと、何故かいつも『フロム・ダスク・ティル・ドーン』を思い出します。名前の通り、夜の間だけ活動できる怪物たちが登場する映画です。この映画に限らず、「暗闇の中だけでしか生きられない怪物」というモチーフは、人類の文化の様々な面で見出すことができるでしょう。
ファジュルが聞こえると、怪物たちは巣穴に戻らなければならない。あのうねるような音は、怪物たちの断末魔の叫びのようにも聞こえる。
時を断たれ、闇への退却を余儀なきされる怪物、それはわたしです。
夜の思考は穴掘りに似ていて、全体を見渡すというより、視野狭窄をプラスに使って、一つの部分を徹底して掘り下げていくのが得意です。逆に言うと、具象から切断された透明な思考が、ただただ暴走していくようなところがあります。夜に書いた手紙が、朝読み返すとロクでもないことがあるように。
そういう透明性、静謐さ、「夜の自由」が、ファジュルに切断される。
「太陽の元では明らかなものは何もない」と言ったのはソロモン王だったか、よく覚えていません。ミシェル・セールがこれを援用して、文化相対主義的な、失礼ながらややチープな論を唱えている場に居合わせたことがありますが、確かに太陽はある種の自由を奪います。太陽が示すのは「ただ一つの具体的な世界」です。太陽の元では、世界は目に見えるままのものでしかない。夜、世界は可能的なものに満たされる。ファジュルと共に、世界は収斂し、形を持つ。形を持ってしまったがゆえに、形なき自由を失う。
ファジュルの告げる「終わり」。ファジュルは一番最初のアザーンですが、ここで気になっている感覚について言えば、むしろ「終わり」が近いです。そう、ファジュルで何かが終わる。
ファジュルの後で、礼拝の感覚がグッと広くなっているのは、何となくストンと落ちるところがあります。ファジュルで何かが終わって、太陽の世界の前で何もかも諦めた頃に、ズフルがやってくる。
イスラームとアラビア語が生まれたアラビア半島は、エジプトはカイロなどより遥かに過酷な自然環境で、朝の訪れの持つ意味は、一層熾烈なものだったことでしょう。照りつける太陽の元では、人間は本当に、寄る辺ない力なき存在だと感じます。
もっと大げさに考えるなら、わたしたちの大ご先祖様の初期哺乳類は、爬虫類たちの支配する昼の世界に怯えながら、嗅覚を頼りに夜の世界を生き延びたはずです。彼らにとって、夜明けは間違いなく「終わり」だったでしょう。
ファジュルで何かが終わる。終わりが始まる。
街をファジュルのアザーンが吹きぬけ、嘘のような静寂が再び支配し、それからしばらく経って次第に空が白んでくる頃、神の楔を打ち込まれた怪物たちが、ゆっくりと死体のように行進を始める。
もう一度、夜の自由に帰るまでのあいだ。

夜の自転車 posted by (C)ほじょこ
ファジュルの告げる「終わり」
エジプト留学日記