モロヘイヤとスッカルの歌、へつらいとお世辞、秩序なき秩序

 授業前に近くのスークをうろつく。衝動的に服を買ってしまう。ムスリマが着ている黒い服が欲しくて、お金もないのに購入してしまいました。半額まで値切ったけれど、元の値段が明らかにふっかけていたので、それでも安くはありません。アホです。
 最近、ナイルテレビのファミリーチャンネルをよく見ているのですが、この子供向け宗教番組が面白いです。子供向けでもアーンミーヤの番組がほとんどで、宗教番組ですら先生が「上品なアーンミーヤ」くらいの言語で喋っています。子供向けだからこそ、ゴリゴリのフスハーでは勉強にならないのかもしれません(大人向け宗教番組やニュース、時代ものはフスハーが多い)。
 でも、主題がみんな暗記するクルアーンの最後の方のスーラだったりすると、わたしも馴染みが深いし、易しく丁寧な言葉で喋ってくれるので、「上品なアーンミーヤ」の勉強に丁度良いです。
 授業中、何かでわたしが「スッカルスッカル」(お砂糖)と歌のように節をつけて呟いたら、先生が面白いことを教えてくれました。
 エジプトの女性は、ムルヒイヤ(モロヘイヤ)を似る時、「スッカルスッカル」と言うそうです。別にお砂糖は入っていないのですが、「美味しくできますように」というお料理ソングというか、特に意味はないけれど何となく口ずさむ習慣的なもののようです。
 今日はالنفاق(ニファーク、媚びへつらい)についての文章を読んでいたのですが、授業後に店員のハーニーがやって来て、この文章を眺めて、「نفاقニファークとمجاملةムジャーマラは何が違うのか」と言い出しました。
 مجاملةというのは「お世辞」みたいな意味ですが、ニファークがネガティヴな意味なのに対し、ムジャーマラは肯定的な概念です。
 ハーニー先生曰く「ムジャーマラは褒め言葉だが、本当にそこにあるものを褒める。例えば、妻の瞳が美しかったら、その瞳を称えるのは良いことだ。誰にでも良いところと悪いところがあるのだから、良いところを褒めなければならない。一方、ニファークは利己的な嘘であって、悪い結果しか生まない」。
 なるほど、良いことを言います。
 ハーニーは風貌的にもキャラ的にも学者っぽいところがあって、仲間内でよく「ウスターズ(教授)」と呼ばれています。
 エジプト人というと、大声で喋ってやたら女の子をひっかけてばかりいるようですが、ハーニーも先生も全然ナンパじゃないです。基本的にみんな人懐こいし、こんなに積極的に人が声をかけてくることが日本では絶対あり得ないので、そういう人ばかりに目が行ってしまって、ついエジプト人がみんなナンパでやたら人好きなように思ってしまいますが、落ち着いて眺めてみれば、全員が全員そんなキャラなわけではありません。
 毎日顔をあわせていても挨拶以外言葉を交わしたこともない人もいますし、「儀礼的無関心」を心得ている人も沢山います。
 日本と違うのは、キャラの幅が異様に広いこと、そしてどんなキャラの人がいても、余程でない限り難癖をつけたりネガティヴに評価したりしない、ということでしょうか。「ものすごい色んな人がいる」「他人のことはどうにもならない」という、良く言えば寛容さ、悪く言えば諦めみたいなものが定着しているように見えます。
 大分慣れてきたつもりでも、やっぱりエジプトの「先の見えなさ」は疲れます。計画とか秩序というものに基づいて行動するのが本当に難しいし、昨日言ったことが今日は変わっていたり、あらゆるものの変化が速く、ふれ幅が広く、かつ法則がありません。
 その代わり、前にも書きましたが、予定通りに行かなかったことに対してみんな異様に寛容ですし、行き当たりばったりに行動しても、行く先々で赤の他人が助けてくれます。
 そうは言っても、極めて秩序立った日本で長年暮らしてきたので、ストレスが貯まるのは事実です。
 今日、先生と少しこの話になり「秩序がないように見えても、本当は何か秩序があるはずだ。ただ、それが日本と違うから、わたしにはなかなか理解できないのだと思う」と言ったら、先生が「いや、秩序は本当にないよ」と笑います。「あるのはنظام ليس منظم(ニザーム・ライサ・ムナッザム)だけだ」。つまり「秩序立てられていない秩序ならある」ということですが、洒落た言い回しで気に入ってしまいました。
 別にエジプト人が秩序の重要性を認識していないわけではないし、大抵の人は計画も秩序も大事だと思っているようなのですが、現実問題としてあまりにもキャラの多様性が激しくて、そんなものに期待していても回らない、ということのようです。
 寝る前に例によって少し近所を散歩したら、「いつもこの辺歩いてるね」と、これまた例によってナンパされる。機嫌が良かったので少しだけ一緒に歩いたのですが、思い切り生活圏内なので、ちょっと近所を一回りする間に彼は十人くらいの人と挨拶したりハグしたりしていて、更に三、四回は携帯で喋っていました。ものすごい人間関係の濃さですが、同時に、その濃い人間関係まっただ中の自宅前でナンパする神経が尋常ではないです。
 彼は自家用車を持っていて「ドライブしよう」とか誘ってきたのですが(もちろん絶対乗らない)、そんな人がいるすぐ横で、物乞いをする女性やバクシーシをせがむストリート・チルドレンが生活しています。ベンツを乗り回している人がいる一方、路上で生活する子供たちがいて、何かに蝿がやたらたかっているなーと思ったら寝ているおじいちゃんだったりします。世界長者番付では、確か日本人トップより上にエジプト人が一人いたと思います(未確認)。
 この貧富の差は非常に深刻な問題だし、このところ「格差社会」など言われる日本など、まるで可愛いものです。
 平等というのは、本当に本当に大事なものです。一億総中流、素晴らしいじゃないですか。
 何から何まで同じというのはおかしいし、努力が報われないのも問題ですが、大きすぎる貧富の差は、それだけで社会の不安定要因になりますし、例え国全体としての競争力が多少落ちたとしても、自由を抑制して平等の実現を優先すべきだと、わたしは思っています。
 わたしたちを苦しめる貧しさというのは、絶対的な貧しさではなく、相対的な貧しさです。例え貧しくても、周りがみんな似たような調子なら、それほど苦にはなりません。
 日本に出稼ぎに来たバングラデシュの人が、日本人の浮かれた生活ぶりを目にして、次第に憎悪を募らせるようになった、と聞いたことがありますが、彼の貧しさは来日前でも一緒なわけで、日本で仕事をしているだけむしろ豊かになったはずです。ただ、今まで見たこともなかった裕福な暮らしを目の前にすることで、憎悪のチャンネルが開かれてしまうのです。
 平均点が少し下がっても、標準偏差の小さい社会の方が良い社会だと信じていますし、イスラームの教えにも合致すると思います。
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