エジプトは「命の安い」国です。交通事故で人を轢き殺してもスズメの涙のような賠償金で済んでしまいます。人間の数だけは有り余るほどあるし、路上にはバクシーシをねだる子供がウロついています(もちろん、みんながそんなに貧しいわけではない)。そういう国は世界中に沢山あります。
一方、日本は「命の高い」国です。ほとんどの人が少ししか子供をもうけず、多額の教育費をつぎ込み、高い人件費を払い、事故で人を死なせてしまったりしたら、高額の賠償金が請求されます。寿命も長いです。
単純に考えれば、命が安いより高い方が良いに決まっています。
一定の教育のあるエジプト人に聞けば、今では誰でも「子供をつくりすぎるのは賢いことではない」と言いますし、次第に出生率も抑制されて、命の値段も今よりは高くなっていくことでしょう。これは確実な進歩です。
でも、命がやたらに高くなれば、それが人間の幸福なのでしょうか。
多くの日本人がエジプトを訪れてもエジプト人を怖がってばかりいることについて、今まで何度もエジプト人に尋ねられ、わたしなりの答えについても、ここで何度も書いてきました。「社交上手じゃない」「言葉が下手」「密な人間関係になれていない」「悪いエジプト人を見分けられない」等々です。
加えて、日本人は命を高く見積もりすぎているんじゃないか、ということに最近思い当たりました。
わたし自身、ものすごい怖がりです。多分、平均的な日本人より怖がりなんじゃないかと思います。
誰だって危険な目には遭いたくないし、病気になりたくないし、死にたくもありません。
でも、病気になる時はなるものだし、誰でも人はいつか死ぬものです。
ぶっちゃけ「最後は死んじゃうんだし、今日死ぬかもしれない」という諦めというか、開き直りのようなものも、同時に大切なのではないでしょうか。
エジプト人の多くが、細かくて繊細で怖がりな日本人に比べて、どことなく達観して見えるのは、命の値段を高く見積もりすぎていないからの気がします(現状では安すぎる)。
この命の見積もりには、信仰の力というのも確実に働いていて、おそらくわたしが神様のことが気になって仕方がないのも、わたしが格別「命の高い」甘やかされた環境で育ち、特別怖がりだからでしょう。
どんなに怖がっても、怖いことは起きる時には起きます。恐れること自体には何の意味もありません。わたしは、自分の恐怖が一番怖い。
北野武さんの映画の一場面で「あんまり死ぬのを怖がっていると、死にたくなるんだよ」という台詞がありましたが、その通りだと思います。死ねば、それ以上死にませんから。
わたしは、命の適正価格が知りたい。高すぎもせず、安すぎもしない値段で、自分の生を生きたい。
命の値段を決めるのは誰でしょうか。神様以外の誰がいるだろう、と少なくともわたしは信じています。
自分自身の恐怖を越え、命の適性価格に到達するために、命の安い環境も知りたいし、何より信仰のある普通の世俗的生活が知りたい。
別に「出家」なんて要らないし、イスラームなら「出家」的態度はむしろ宜しくないとされます。適度な信仰というものもあるし、その中でこそ、命の適正価格も感じられるのでは、と考えています。
神様は、命を安く扱うことを許さないでしょうが、同時に高く見積もりすぎることにも喜ばないでしょう。そしてインフレに踊らされない者から、代わりに恐怖を取り除いてくれる、とわたしは感じています。
命の適正価格
エジプト留学雑記