愛と信仰について語り合うと、いつも水道が止まる

 お休みが終わって、またいつものルーチンに戻る。
 朝食抜きでのんびり宿題をやって、屋台のサンドイッチで昼食。2ポンド(約40円)。
 この日は晩御飯も2ポンド50ピアストル(約50円)のコシャリだったので、一日で食費を100円くらいしか使っていません(笑)。
 今日の討論テーマは、交通の秩序。これについては言いたいことが山ほどあって、喋り捲れました。カイロの交通事情について「なんとかせにゃならん」と思っているのはエジプト人も一緒で、先生もため息をついていました。
 昨日のサウジのイマームとの件があったので、ちょっとだけ先生とイスラームのことを話す。地獄のイメージで脅すような語り方をするのは良くない、と先生は言います。
 「仮にわたしがムスリマになったとして、わたしの家族や日本の友達はどうなるの? 『ムスリム以外は地獄に落ちる』なんて、わたしは絶対に言えないし、言いたくないし、言うべきではないと思う」と言うと、先生は「その通りだ」と認めてくれる。また、他人の信仰実践について口を挟むことが良くないことであることも、再確認する。
 「信仰において一番重要なのは、神様とわたしの一対一の関係だと思う。形や他の人間との関係も大切だけれど、一番大切なのは神様への愛だ」と自分の考えを言うと、「まったくその通り」と評価して貰えて、少し安心しました。
 授業の終わりに、突然ボスのS先生が現れる。
 授業参観のように、M先生もわたしも緊張ぎみで、妙にテンションが上がります。この時読んでいた文章がわたしにはかなり難しく、M先生も説明に苦慮していたので、二人ともボスに「ダメ教師」「ダメ生徒」と認識されないよう、必死になっています。
 S先生は、お腹を突き出したいかにも「アラブのシャチョー」然としたエネルギッシュな人で、ちょっと怖いところもありますが、頭の回転も素晴らしく速いです。横から口を出して示す例えも説明も、非常に的確でわかりやすく、おまけに声が通って美しい。有無を言わせぬ巧みな弁舌を振るえる人で、このトーク力と機転で修羅場を潜り抜けてきた、というのがヒシヒシと伝わってきます。
 滞在に関していくつか相談事をして、この日の授業は終わりました。
 晩御飯のコシャリを食べに行く途中、また交通事故現場に遭遇。
 事故の瞬間ではなく、事故った後でしたが、タクシーと乗用車の運転手が怒鳴りあいをしていて、回りに人だかりができています。タクシーは自走不可能な状態になっているようで、みんなで押して道路の脇に寄せていました。
 やれやれです・・。
 宿に戻る途中で、前にナンパしてきた同じエジプト人が、また話しかけてくる。
 思ったより良い人っぽく、しつこくすることもなく「ちょっとお話してみたかっただけだ、元気にしてる?」みたいな他愛のないことだけ話して、バイバイしました。
 ナンパに限らず、声をかけてくる人に対しては、完全無視ではなくトークの中で適度に距離を取る、というのが重要だと思います。日本人全般に、こうした「外交的」技術に拙い傾向があるようですが、わたしも適応に時間がかかっています。外国語ではなく母国語であったとしても、「丁重にお引取り頂く」のには技術が必要です。
 たまたま授業の時にもこの話題が出たのですが、「うまく距離を取りながらイヤなことを相手を怒らせずに断るのは、技術が要る」と言ったところ、先生はちょっと驚いた様子で「当たり前じゃないか、それはすごく重要なスキルだ」といった反応をしていました。「何を今更」だったのかもしれません。
 エジプト人はこういうトーク技術に長けていて、ほとんど当たり前のことだと思っているのでしょうが、外交下手・社交下手な日本人からすると(わたしだけ?)、道のりは険しいです。
 特別なことが何も起こらないまま一日が終わってしまうなぁ、と思っていたら、暗いマタァムで仕事あけのハーニーがぼんやりテレビを見ていたので、遊びに行きました。
 昼のカイロの日差しは地獄のようですが、夜は本当に美しいです。薄暗いマタァムでカイロの夜景を見ながら語り合うのは、夢のように心地よいです。
 彼はカイロで生まれ育った人ですが、バックグラウンド的にはサイーディー(ナイル上流の人たち)で、両親はルクソールより少し北くらいの村の生まれだそうです。
 エジプトの多様性が話題になる。「エジプトは大陸の交わるところにあって、常に他国の侵略を受け、色んな人が住んでいるし、今も沢山の観光客が来る。わたしはそういう色々な人と一緒に生きていきたいし、この多様性は良いことだと思う」と彼は語ります。
 本当にその通りだと思うし、エジプト人は顔形から性格に至るまで、よく言えばバラエティに富み、悪く言えばまとまりがありません。日本とは好対照を成しています。日本的な秩序をこの国で築くのはほぼ不可能でしょうが、一方で異質なものと適度な距離を取って共存する技術については、エジプト人の方が圧倒的に長けています。日本の均質性にもエジプトの多様性にも、それぞれ良いところと悪いところがあるでしょう。
 また何となく宗教的なお話になります。
 「わたしは自分を良くしていきたいと思うが、別に出世したりお金が沢山欲しいとは思わない。ただより良い人間になりたい」「国のための仕事を何もしない大臣と、小さな学校の先生だけれど、生徒に本当に役立つことを教えられる人なら、安月給の先生の方が立派だろう」「同じ一冊の本を見ても、その価値を汲み取ることができる人もいれば、『こんなのはただの紙じゃないか』と捨ててしまう人もいる。価値というのは、心に宿るものだ」と語ります。
 こう書いてしまうと、安っぽいお説教話にしか見えないでしょうが、こういうベタで素朴なことを、大真面目に語れるというのは、それだけで価値あることだと思います。斜に構えて素直になれないより、ちょっとバカなくらいの方がいいです。これは自分自身に対して言っています。
 ハーニーは決してフスハーが上手な方ではありませんが、その苦手なフスハーで話すからこそ、言葉に真実が宿っているようにも見えます。フスハー独特の荘重さもありますが、同時に、「慣れない言葉で話す」こと一般の力もあると思います。今のわたしにとってのフスハーが正にそうですが、慣れない言語で喋ろうとすると、どうしたって表現が素朴になります。本当に言いたいことを、むき出しでぶつけるしかできないからです。限られた会話力の中で何とか言葉を紡ごうとする時、得意な母語で喋るときより、むしろ人は純真になり、本性が現れる気がします。
 部屋に戻ると、また水道が止まっていました。
 ハーニーと語り合うと、いつも水道が止まります。彼には水道を止める不思議な力があるのでしょうか。
 できたら使って欲しくない力です・・。

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