最近、非常に面白いweb上のテクストを二つ見かけました。無関係な話題に見えて通底しているものを感じるので、一緒に扱ってみます。
バンコクで「物価」の意味を知る – 狐の王国
日本の良さが若者をダメにする | TOKYO EYE | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
まず、前者から。
結局「物価が安い」と思われてるバンコクだって、日本と同じものを得ようとすればたいして変わらない金額になる。「物価が安い」のは、言い方は悪いが「もっと劣悪な製品」が存在してるというだけのことなのだ。
別に格差はあっていいんだよ。でも今の日本には安い屋台も無ければ安いアパートも無い。貧乏人が使うようなアパートはバブル期にほとんどぶち壊しちゃったし、50円で食べれるラーメンなんて無くなっちまった。
高度経済成長は、最後には「庶民」の生活レベルを底上げしすぎて戻れなくさせてしまった。再び訪れる格差社会に対応できる市場が消えてしまった。
これはわたしもエジプトで痛感したことで、別にタイやエジプトに限らず、世界中の多くの国で実感できることですが、日本は本当に「高品質」なものしかない。「高いものしかない」から物価が高い、生きられない、と感じるのであって、同じくらい高いものは、タイでもエジプトでもあるんです。ただ、貧乏人には貧乏人なりのものがあって、金持ちは自動小銃をぶら下げた兵隊の守っている特別なエリアで特別なものを買う。
「格差はあってもいい」というのは、微妙な問題なので両手を挙げて賛成はできませんが、よくも悪くも日本は非常に格差が小さい。このこと自体は素晴らしいことだと思うのですが、格差が小さい(小さかった)が故に、すべてがこの「格差の小ささ」を前提に出来てしまっているのです。エジプトやタイのように、金持ちエリアが露骨なまでに隔離されているわけでもなく、夢のようなインフラの恩恵に誰もが預かれるのですが、逆に「そんな高価なもん要らん、細々やらせてくれ」という生き方ができなくなっています。皆がそれなりにお金を持っていて、それなりに教育がある、そういう状態が前提になっているのです。
格差が小さいことも、インフラが整っているのことも、それ自体としてはとても良いことです。少なくともわたしは、日本について一番誇らしいと思っていることは、「平等」のレベルが非常に高いことです。
しかし、格差が小さく全員のレベルがそこそこ高いことを前提に社会ができてしまうと、一旦その枠組から外れると、非常に生きづらい世界が待っています。「セイフティネット」を作れということではなく、普通の国はむしろその落ちた先のネットの方が基本で、上は金網の向こうにあって貧乏人は最初から入れなくなっているのです。
インフラが良いと言えば聞こえが良いのですが、インフラというのは維持するのにもコストがかかっているのです。広く行き渡らせて維持している方が総じて見て「割安」なら結構なのですが、一定以上の品質のサービスとなると、維持しているだけ無駄な可能性もあります。
極端な話、水道から出てくる水が飲めるというのも、ものすごい贅沢です。まぁ、個人的にはエジプトの水道水も最終的には飲んでいたのでエジプトだってそれくらいのインフラはある、とは言えるのですが(笑)、それはただ単にわたしが丈夫なだけなので、日本の水道は異様にレベルが高い。その超高品質の水道水でも満足できず浄水器だのミネラルウォーターだの買ってくるのだから、すごい話です。こんな高級水を全家庭にまで行き渡らせなくても、公共サービスとしてまったく合格点だと思います。
外国人労働者や低所得者層に対し「インフラにフリーライドしている」という指摘がありますが、乗りたくもない高級インフラを掴ませて「金払え」では、押し売りでしょう。NHKの集金じゃないんですから。
いきなり個人的な生活臭い話になりますが、なるべくハッピーに暮らす家計のコツは、
1 定期的に出て行くお金を減らす
2 定期的に入ってくるお金を増やす
だと信じています。
このうち特に2は、そんな簡単にできるくらいなら苦労しないので、具体的な実現方法についてはちょっと脇に置いておいて頂きたいのですが、1で言いたいのは、月々払う携帯代だの家賃だのといった部分を、とにかく圧縮する、ということです。
まったく当たり前のことなのですが、月々出て行くお金というのは、少額でも溜まり溜まって大きなお金になりますし、何より楽しくない。
例えば、7万円でパーッと豪遊したら「うわーお金使ったわー」という実感がありますが、家賃に7万振込んだからって、別にウキウキしたりしません。むしろ、ただ住んでいるだけなのに7万も取られてムカムカするくらいです。
定期的にお金を取られる恒常的なサービスというのは、慣れてしまえばちっとも嬉しくないのに、お金だけは確実に取られます。逆に、多少品質が悪くても慣れれば勝ちです。その倹約した分を実感できる使い方に回した方が、全体としてハッピーだと思っています。
何が言いたいかというと、インフラという「月々出て行く」系にお金をかけすぎると、コストがかさんでいる割にハッピーが実感できない、ということです。
日本のインターネット品質の素晴らしさは特筆に値しますが、毎日毎日「インターネットはえー! 最高!」とか喜んでいる人はいないでしょう。本当はすごく恵まれたことなのに、あんまり得した気持ちになれない。なんだか損です。
つまり、インフラ的な「社会の共有基盤」が高い方で固まってしまと、
1 落ちる先がない。貧乏なりの生き方が辛い
2 慣れちゃうからあんまり幸せじゃない
という問題があります。
これに加えて、
3 そのインフラがない状況に極端に弱くなる
という問題があります。
これが二つ目に紹介した日本の良さが若者をダメにするという話題につながってくると思うのです。
日本の若者は自分の国の良さをちゃんと理解していない。日本の本当の素晴らしさとは、自動車やロボットではなく日常生活にひそむ英知だ。
だが日本と外国の両方で暮らしたことがなければ、このことに気付かない。ある意味で日本の生活は、素晴らし過ぎるのかもしれない。日本の若者も、日本で暮らすフランス人の若者も、どこかの国の王様のような快適な生活に慣れ切っている。
外国に出れば、「ジャングル」が待ち受けているのだ。だからあえて言うが、若者はどうか世界に飛び出してほしい。ジャングルでのサバイバル法を学ばなければ、日本はますます世界から浮いて孤立することになる。「素晴らしくて孤独な国」という道を選ぶというのであれば別だが。
この記事で指摘されている通り、日本の公共サービスや交通インフラは尋常ではなくレベルが高いです。
でもそのレベルの高さに慣れすぎてしまって、それが失われた状況に極端に弱い。しかも、慣れ切ってしまっているから有難味も感じられず、あんまりハッピーじゃない。損です。
日本の技術の「ガラパゴス化」などが指摘されていますが、ガラパゴスと言うなら、この「インフラの異様なレベルの高さ」こそが、最も「特殊日本的」なのではないでしょうか。ガラパゴスというより、温室か実験室のようです。普通の国なら武装したゴリラみたいなのに囲まれている「守られた楽園」が、日本全体に広がっているのです。
繰り返しますが、インフラのレベルの高さそのもの、格差の小ささそのものは、悪いことのわけがありません。
でも、あんまり高いレベルのサービスを無限定に提供してしまい、「レベルの低いサービス」を根絶やしにしてしまうことは、息苦しくてしかも融通が効かない社会を作ることにもつながってしまうのです。
格差を肯定し公共サービスを縮小する方向でものを考えるのは、平等を重んじたいムスリマとして心苦しい部分もあるのですが、多分、現実的でハッピーな平等というのは、実際にある様々な格差を一旦認めた上で、「貧乏は貧乏なりに」「ダメはダメなりに」生きていける、ということのようにも思えます。
一方で、今ひとつ懸念もあって、もしそのように格差をある程度肯定し、多様で緩い日本を作ってしまうと、今まで「均一高品質」「単一民族幻想」が取り柄だった日本から、全然長所がなくなってしまうのではないか、という気もします。日本の何がすごいかといったら、この異様な均質性であって、これを前提にするからこそ、軍隊のように管理された合理的な生産活動が可能だったのです。
裏を返せば、「均一高品質」なんて、所詮賃金奴隷をこき使うのに便利なだけで、実のところ皆んなを幸せにするものでもない、と言えるし、一周回って多少日本の競争力が落ちても、インフラをヘボくして細々やっていく方が、心理的にはハッピーな人生が送れる可能性もかなりあると思いますが。
