動物園と猫、信仰に関する質問、アザーンのような迷子放送

 前にも書きましたが、いつも勉強しているマタァム(カフェレストラン)の窓から、動物園のペリカンの檻が見えます。よく見ると、ペリカンと普通のアヒルが一緒に飼われています。
 そして餌が撒かれると、ペリカン、アヒルに加え、周囲の木陰から一斉に野良猫が飛び出して、三種の動物が餌を奪い合う、という光景が拝めます。
 餌がなくなってしまうと、猫たちは檻から出て、近くの木陰に集まって「あーあ、もう食っちまったなぁ。やっぱアヒル食うの速いなぁ」みたいな感じで、ダルそうに寝転んでいます。ペリカンの檻には大きな池があるけれど、木陰が少なく、そこは大抵アヒルが占拠しているからです。パッと見えるだけで十匹くらいは常にいます。
 その猫をまた子供が追いかけたりしているので、この風景だけでいつまで見ていても飽きません。子供たちは、時々動物園内で、結構本気ぎみのサッカーをやっていることがあります。
 また、動物園の上空は、時々日本では見たこともないような緑や黄色の極彩色の鳥が飛んでいる時があります。エジプトとはいえ、カイロ市街でこんな鳥が自然に生息しているとも思えないので、動物園から脱走して、そのまま周辺に居ついてしまったのではないかと思います。
 動物園は、中に入ると「ライオンの赤ちゃんに触れるよ!」等のぼったくり業者が次から次に寄ってきて鬱陶しいのですが、上から見ている分にはとても楽しいです。
 このマタァムは9階(日本の数え方で十階)にあるのですが、遠くのビルはかなり霞んでいます。五キロも離れるとほとんど見えません。排ガスのスモッグもあるでしょうが、すぐそばが砂漠ですから、ほとんどは砂漠から飛んでくる砂のせいでしょう。
 カイロでは秋は砂嵐の季節らしいですが、今でも日に日に風が強くなっていくのを感じます。朝目覚めた時、窓の外から風が唸る音が聞こえるので、日本の感覚で嵐なのかと錯覚するのですが、もちろん雨など一滴も降っていなくて、ただ風だけが強く吹きすさんでいるのです。
 日本でも海の近くの道路は、道の隅に砂がたまっていますが、カイロではすべての道路がこの状態です。加えて、市民が捨てまくる空き瓶やら空き缶やらがたまっていて、危なっかしくて道の端は歩けません。これも、歩行者が危険に晒される一因になっている気がします。
 カイロに来たばかりのころ、道を渡りたい人だけでなく、単に道沿いを進んでいる人も車道を歩いているので、何故だろうと思ったのですが、ちゃんと理由がありました。
 ちなみに、道の端にいると、上から水が落ちてきて「雨?」と錯覚することがあります。これは冷房の室外機から降ってきた水です。
 他にも、窓から物を捨てる人がいるので、道の端は車道に負けないくらい危険です(笑)。
 いつものように宿題をしていると、若い店員のムスタファーくんが話しかけてきました。
 彼はわたしが勉強熱心だとしきりに持ち上げてくれて、「なぜアラビア語を勉強しているの?」という、百回くらいされた質問を投げかけてきました。
 実はわたしは、この質問が苦手です。正直、なぜだか自分でもわからないからです。
 大学生でも職業研究者でもないし、今のところ直接仕事にも関係ない。それを仕事を辞めて貯金をつぎ込んでエジプトくんだりまで来ているのは、エジプト人でなくても奇妙なことだと思うでしょう。わたしも同感です(笑)。
 適当にはぐらかしていると、今度は「君の宗教は何だ?」と尋ねてきます。仕事目的でないなら、信仰のためにフスハーを学んでいる、と考えるのは自然な発想です。
 「ムスリマ? キリスト教徒? ユダヤ教徒?」
 「少なくともユダヤ教徒ではないね」
 そう答えると、ムスタファーくんは大笑いして、パン、とお互い手を合わせました(エジプト人はジョークがウケるとこの動作をするし、わたしも大好き)。
 「イスラームには惹かれているけれど、正式には入信していない。日本は仏教の影響が強いけれど、ほとんどの人は仏教徒とは言えないと思う」と説明したのですが、仏教というのが今ひとつ伝わりません。
 「じゃあ一体何を信じているんだ?」。
 この質問をする時、彼はتعبدونという言い方をしたのですが、عبدというのは辞書的に言えば奴隷のことで、動詞としては「何かにかしづき、従う」ようなニュアンスです。ジーンズ姿の普通の青年の彼が、こういう言い方をしたのには、少しハッとさせられました。わたしたちは、万有の主なんかではないし、動物も人間も何かのعبدしもべとして生きている。その点にはまったく同感です。
 「日本人のほとんどは特に何も信じていない」と言うと、不思議そうに「じゃあロシアみたいな感じか? 共産主義者なのか?」と聞いてきます。「うーん、共産主義じゃないけど、宗教は似たようなものかなぁ」と答えにつまります。
 「でも個人的には、唯一の神が存在して、神様が世界を創造したと信じているし、審判も信じているよ」と言うと、「今度クルアーンを持ってきて説明してあげる」と言います。
 わたしはPDFのクルアーンをネットブックに入れていて、いくつかのスーラやドゥアーは暗記しているので、「これでしょ」とファイルを開いて見せると、目をキラキラさせて「そう、そうだ!」と興奮ぎみです。
 この辺で他の店員さんが「ほらほら、勉強の邪魔でしょ」みたいなツッコミを入れているのですが、もう彼の興奮が止まりません。「ファーティハと、それから最後の三章、これは特に重要だ。あとالملك、これは三十のアーヤ(クルアーンの行、奇跡という意味)から成っているけれど、これを毎晩詠むんだ。الملكはどこだ? もっと前、前の方だ。もう、なんで目次だけ英語なんだ」とエキサイト。その後、ムスタファーくんの講釈が約一時間続きました(笑)。
 クルアーンのアラビア語は簡単ではないし、彼はちょっとなまっている程度のフスハーで喋ってくれるものの、早口な上、主題が難しいので、今ひとつ内容を追えません。何度か他の店員さんが寄ってきたり、掃除担当の彼の友人が「ムスタファー、何やってんだよぅー」みたいな感じに近づいてきても「今忙しいんだ! 向こうに行ってろ」とつれない反応をしたりして、もう止まりません。まぁ、わたしとしては勉強にもなるので構わなかったのですが、宿題が全然進まないうちに脳が疲れきってしまいました。途中何度か「続ける? 向こうに行って欲しかったらやめるよ」と聞いてくれるのですが、到底「やめます」と言える雰囲気ではなかったです(笑)。
 すべてのムスリムがこういう調子なわけでもないし、また彼も決していわゆる「原理主義」のような思想の持ち主ではありません。丁度日本の男の子が、自分の好きな趣味に興味を持ってくれる子に出会った時に、歯止めがきかないくらい喋りまくってしまうのと一緒だと思います。一頻り講釈した後で、ちゃんと「やべぇ、ちょっと喋りすぎた」みたいな感じで窓の外を眺めて物憂げになっていました。宿題が進まないので部屋に戻ろうとすると「昼食が終わったらまた戻ってくるんだよね?」と、ちょっと不安顔でした。
 ムスリムといっても、信仰実践の度合いは人それぞれだし、礼拝をする人しない人、するにしてもキッチリ時間通りに手順を踏む人、大雑把な人、色々です。わたしは会ったことがないですが、お酒を飲んじゃう人もいるそうです。そして他人の信仰実践に口を挟むのは、無礼なことだとされています。その辺の尊重具合は、宗教音痴の日本人よりずっと紳士的です。彼が割と宗教熱心なのは確かで、マタァムの片隅でいつも礼拝しています(他の店員さんが礼拝しているのは見たことがない)。
 ちなみにM先生も授業の途中で礼拝していますが、決まった時刻にはなかなかできないので、授業がひと段落した時に「ちょっと礼拝していいかな」と断りを入れてお祈りしています。彼も、例えば何かの単語の意味を説明しようとした時に、わたしが遮って「知ってるよ、クルアーンのここで使われている表現でしょ」みたいに暗誦すると、ほとんど恍惚とした表情で悦んで褒めてくれます。
 門番のおっちゃんがラジカセでクルアーンを聞いていたり、タクシーの運ちゃんがクルアーンを流しながら仕事していたり、そんな感じで身近で地に足のついたところに信仰があります。わたしも日本にいる時はiPodでクルアーンを聞いていたので、この気持ちよさはある程度理解できるつもりです(クルアーンのテクストと音声がプリインストールされた特製iPodというのがあって、欲しくてたまらない)。
 それでも、あんまり押し付けがましい人に会うと辟易するのも事実で、信仰の話は一応慎重にやっています。少なからぬ日本人が、彼らの「溢れある親切心」にうんざりして、かえってイスラーム嫌いになってしまうようですが、それもよく理解できます。もう少し放っておいてくれれば安心して信仰できるのですが、この辺は、イスラームに惹かれる気持ちと、平凡な日本人的感覚が揺れ動くところです。
 今日は授業中に、ちょっと面白いことがありました。
 マスジド(モスク)からアザーン(礼拝を呼びかける放送)のようでアザーンではない放送が聞こえてきて、先生が「ちょっと黙って」みたいな動作をして耳を澄ませています。わたしはよく聞き取れなかったのですが、どうも迷子の放送らしいです。迷子になった男の子をマスジドが預かっているので、家族の人は迎えに来て下さい、という内容とのことです。
 これにはちょっと感動しました。アザーンの設備を使って迷子放送をするなんて、粋なはからいじゃないですか。
 「日本なら警察の仕事だよ」と言うと「警察はこんなことしてくれない。マスジドが呼びかければ、家族か近所の人が必ず迎えに行くし、今頃もう誰か来ているかもしれない」と言います。人懐っこすぎてちょっと正直ちょっと暑苦しいエジプト人ですが、こういう人情劇には素朴に気持ちが動かされます。
 M先生は自分のプログラム通りに授業を進めることにこだわっているので、授業後半になると、焦って段々スピードが上がってきます。心身ともに疲労がたまってきているところに、かなりのスピードで質問が飛んできて、間髪置かず即答しなければなりません。ほとんど脊髄反射です。
 正直かなりキツイのですが、言語訓練としては有効なのではないかと思います。
 言語なんてスポーツと一緒ですから、反射力を鍛えなければ使い物になりません。昔武道をやっていた時、千本蹴りとか一時間ステップだけとかド根性コンビネーションとか、ひたすら体力を削る訓練をやって「筋力を使い果たした時、いい感じに力が抜けて、本当の力が出てくるんだ」みたいなことを言われましたが、似たようなものだと思います。
 それにしても、ここ数日で大分元気が回復してきました。
 もう宿に缶詰にされる覚悟を決めて、空いている時間は体力回復に専念するようになったこと、米・魚・野菜の食事にそこそこの値段でありつくルーチンを確立したことが大きいです。
 心なしか、最近少し涼しくなってきた気がしますが、これは単に気候に身体が適応してきただけかもしれません。
 もう三週間近く滞在しているのに、観光地や街の中心にほとんど行っていないこともあって、一度も日本人に会っていません(笑)。

タイトルとURLをコピーしました