サーミルとサマル グーグル学校とデリバリー先生
十歳前の二人の兄弟、小学校五年生のサーミル・ラムジー・ルゥーフと四年生のサマルは、特殊で現代的な教育を受けている。サーミルとサマルは、一学期は最初の数日しか登校しなかった。その後、父親が「学校なんていらない。この国は病気で一杯だ」と断固たる決意を示したのだ。
サーミルとサマルの家族は、二人の子供に登校を禁じることを躊躇しなかった。状況が、家族の感じた通り危険だったからだ。健康省の報じる数字が、母の心と父の心配を刺激していた(訳注:政府の発表する豚インフルエンザの感染者数を見て心配になっていた、の意)。決定は根本的で断固たるものだった。「家で勉強する」。しかし実際の詳しい負担となると、シャイターン(訳注:サタン、悪魔)の潜みかねないものだった。父親は、サミールとサマルに授業をしてくれる「出張」教師と契約せざるを得なかったが、「誰でも病気の可能性がある」。一方、母親はデットル(訳注:エジプトで一般的な消毒液の商品名)に夢中だ。「清潔中毒になっちゃったわ。考えることといったら、子供が病気になるんじゃないか、デットルすること、そればっかり」。
サミールと妹の生活はすっかり様変わりした。夜は「勉強と学習」の時間で、昼間は寝ているだけだ。母親は「逆転生活」を心配し、テレビの学習プログラムをやるよう励ましたが、「子供たちといったら、映画とアニメを見たがるばかりだったわ」。父親はもっと心配していた。子供は、教科を理解するのに、時間をかけた教師の説明を必要とするものだからだ。
「家族の出費」は三倍に膨れ上がり、「自宅学習」の学費を支払うのに、父親は長時間働かなければならなくなった。年間の学費を作るのに、おそらくは一日二十四時間連続で仕事することになるのはわかっていた。この心配のすべてはーー父親の言うことにはーー「この伝染病は、この国で十年続くかもしれない。その時はどうすればいいのか分からないよ」。
一方母親は、子供の教育にCD教室を使うことを考えていた。これは、昨年、伝染病が流行る前に考えたことで、特に理由はなかった。何人かの教師が、家族にカリキュラムの入ったCDをくれていたのだ。
インターネットの得意なサーミルだが、教育省のサイトは知らなかった。「このサイトでは迷子になっちゃうよ。どこに教材があるのかわからないし、テストの表もないんだ。欲しい情報は、社会学習で探すか、グーグルで見つけるよ」。
サーミルがグーグルで勉強する一方、妹はCDの学校でカリキュラムを学ぶ旅をしている。母親は、「自宅学習」の成果を不安を抱えながら見守っている。同時に、予防接種についての決意は固いようだ。「いいえ、予防接種は受けさせないわ。危険な副作用があるって言われているもの。わたしが病気を持ってきてしまうのだけが心配だわ。彼らは良い子だから、主がお守りくださるでしょう」。
この家族はかなり極端ですが、豚インフルエンザ恐怖はエジプトで結構流行っていました。メトロでヒガーブの裾で口元を多う女性の姿も、よく見かけました(あんなものでは何の予防効果もないと思いますが)。
以前にも書きましたが、恐ろしいのはインフルエンザではなく、インフルエンザに対する人々の恐怖です。パニックが恐ろしいだけでなく、「伝染る病気」というのは、人を疑心暗鬼に陥れます。
エジプトでは特に、社会的な人と人の距離が近く、親しい同性に会えばハグしてチュッチュというのが普通です。これでは予防もヘッタクレもありませんが、むしろ予防のためにハグハグチュッチュを控えるようなエジプトなら、砂漠に埋もれてしまえ!くらいに思います。
大体、エジプトで普通に暮らしていれば、最も危険なのは交通事故であって、インフルエンザなんか流行っていなくても、ガスマスクが欲しくなるくらい大気汚染が酷いです。そっちの心配が先でしょう。
こうして外国のこととして見ると滑稽さが際立ち分かりやすいのですが、日本だって同じことです。豚インフルより狂牛病より、交通事故の方がずっと危ない。飲酒運転なんか特に危ないですから、豚を屠殺するより飲酒運転を死刑にした方が「安全」なんじゃないですか。誰が安全なんだかよくわかりませんが。
エジプトでも、ある程度教育があり意識の高い人間は、徒に豚インフルを恐れるようなことはないし「真の政治的問題を隠蔽するための政府のプロモーションだ」と冷静な意見を言う人もいます。まぁ「豚インフルエンザなど実は存在しない! 政府の陰謀だ!」まで行くと、ちょっと行き過ぎですが。
セキュリティ・パラノイアを激しくこじらせている日本の風景の方が、エジプトより余程滑稽です。
ただこの記事には一つ面白いことがあって、親が自己判断で勝手に「自宅学習」させていることです。日本ではもちろん違法でしょう。
もしかするとエジプトでも正確には違法なのかもしれませんが、経済的事情で学校にロク行けない子供なんて掃いて捨てるほどいるので、国も一々チェックしていられないでしょう(エジプトの公教育はかなりの範囲で無料だが、それ以前に子供が働かないと家計がもたない家庭が多い)。
学校に行かせるのが「義務」というのは、国家主体の考え方であって、行かせたくなければ勝手にやめればいい。それは個人主義というのとは違って、自由を称揚しようというのでも全然ありません(自由など要らん!)。
この父親は、子供を学校に行かせず教育を与えるために、寝る間も惜しんで働いています。そういう覚悟をもって、自らの正義に従い、腹を括っている。ある意味、圧倒的「不自由」を選びとっているわけです。
だからこれは、自由というより、単なる正義の実践であり、主の命に従うことだ。自由は与えられるものではない。なぜなら、我々は既にうんざりするほど自由だからだ。必要なのは、不自由さの中に自らを存在ごと投企することだ。
そういう「反教育」なら、任侠的にもイスラーム的にもいつでも応援します。
元記事:سامر وسمر: المدرسة « جوجل».. والأستاذ «دليفرى»
追記:
公教育が無料もしくは廉価であることについてですが、カイロで知り合ったある人物は、田舎を出て高校に通っている時は家がなく、路上で寝泊まりしていたそうです。ホームレス高校生!
ちなみにこの男は、日本人好きのナンパエジプト人なので、同じエピソードを聞いたことのある日本人女性が他にもいるかもしれません。そう、アイツです。
悪いヤツじゃありませんが、バカなので、一定以上の距離に入れないようテキトーにあしらってやってください。

