携帯電話とイスラーム

携帯電話とイスラーム

AP通信「エジプト人の生活は宗教的象徴で満たされており、ファトワ-が彼らの日常のやり取りを律している」
 「イスラーム保守の隆盛に伴ない、エジプト人の生活はますます宗教的象徴で満たされつつある。宗教的ファトワ-が、彼らの日常生活を律するようになった」。このような表現で、アメリカAP通信の特派員は、近年のエジプト人の生活についての報告を始めている。また特派員は、一昨日放送されたこの報告の中で、女性の間ではヒジャーブ(ヒガーブ)が優勢で、男性には顎髭を伸ばす人が増えている、と述べ、家や自動車や事務所にクルアーンのアーヤ(訳注:クルアーンの章句)を張り付けていることを示した。
 さらにこう続ける。日々の生活までもがイスラーム的になっており、人々は神の御名の元に会話を始め、そして終わらせるようになった。エジプト人のほとんどはスンナ派ムスリムで、5000万近くのエジプト人が携帯電話サービスに加入している。
 また、共和国ムフティ(訳注:イスラーム法学者、ファトワ-を出す人)アリー・グムアの、携帯着信音にアザーン(訳注:礼拝を呼びかける声)を用いることを禁じるファトワ-に触れ、こう述べている。「ムフティは、携帯の呼びかけに応じるのではなく、礼拝の呼びかけに応じるよう、訴えている」。
 グムアがムスリムたちに対しアザーンやクルアーンのアーヤを携帯着信音に用いるのを禁じるファトワ-を出したのは先の水曜日のことで、これはエジプト人の間で現在非常に広まっていることだ、と述べ、グムアの次の言葉を引用した。「アザーンを携帯に使うことは、人々の離散につながる」。
 イスラーム的着信音の流行は、8000万のエジプト人に限ったことではなく、バグダードやサウジアラビアや西岸にも見られることだが、これ程の数ではない。特派員は、エジプトにおけるクルアーンと宗教的音声の使用は、「携帯着信音に限られるものではなく、コンピュータの壁紙や、イードのお祝いカードにも見られる」と語った。

 この記事を読んで、いささかの不安と苛立ちを感じると共に、思わずニヤケてしまいそうな可笑しみを覚えました。
 まず、ネガティヴな印象から。
 この記事だけを一般の日本人(あるいはイスラーム圏を知らない欧米人や東アジア人)が読んだとしたら、エジプトではイスラーム主義が大変に流行しており、何でもかんでもイスラームに結びつけ、ひたすらイスラームの基準で行動する思想が支配的になっている、というような印象を受けてしまうのではないでしょうか。加えて、この記事はAP通信記者による報告を元にしたもので、こうした描写が欧米で伝えられることには、一般欧米人のエジプトイメージを醸成するという点で、特別な意味があります。
 AP通信記事の全文を読まないと何とも言えませんが、イスラーム主義に対する危機感を煽るようなものではないことを祈るばかりです。
 記事の内容は、概ね事実です。確かにエジプト人の生活には、至るところにイスラーム的要素が見られますし、ヒジャーブはほぼ「デフォルト」です。
 しかしこれは、「イスラーム主義」「イスラーム復興」といったオドロオドロしい言葉から連想するような「狂信的世相」では全然なく、非常に自然で、まったく暴力的ではなく、むしろホンニャラと安心させるもので、いくつかの注意点さえ守っていれば、外国人にとっても暮らしやすい世界です(もちろん、一部の過激派はいるが、そういう人達はどんな世界にもいる)。
 非常に面白いのが、携帯着信音の問題とそれに対するファトワ-が取り上げられていること。
 クルアーン着信音、非常に流行っていますね。もう、猫も杓子もクルアーン携帯です。
 礼拝の時間にアザーン音声が鳴る、という携帯の機能も流行っていて、お友達のNちゃんも使っていました。
 クルアーンのアーヤやドゥアー(祈祷)をあちこちに貼り付ける、ということは極めて一般的で、特にタクシーやトゥクトゥクの運転手が、日本で言えば交通安全のお守りをぶら下げるような感覚で、車体に書いたりしています。「イスラームなパソコン壁紙」もよく見られる、というか、わたしもやっています(笑)。
 ここには、微妙な二律背反があります。
 イスラーム的なるものが人々の生活に浸透することは、イスラーム的にもちろん良いことなのですが、どんなものでも大衆化すると本来の意味が失われ、ただのファッションのように扱われてしまう、という傾向があります。件のファトワ-は、こうした動きに釘を刺したものでしょう(多分、ファトワ-が出てもほとんどのエジプト人は変わっていないと思いますが・・)。
 生活の隅々までイスラームを意識するのは結構なこと」とも言えるし、「イスラームはジャーヒリーヤの物神崇拝ではない、お守りのように使うのはけしからん」とも言えるわけです。
 伝統的なものでは、クルアーンのムスハフ、特に最後の三つのスーラを持ち歩くとお守りになる、という民間信仰がありますが、イスラームとは本来、そうした物神崇拝や迷信を禁じ、絶対にして透明なる一者に帰依するものであり、「ご利益」を望むものではありません。ですから、この「お守りムスハフ」の慣習も、イスラーム的なようで反イスラームなわけです。
 また、女性の衣類、特にTシャツなどの西洋風のものにアーヤをプリントする、というのもご法度です。イスラーム的なキーホルダーやらステッカーやらは溢れているのに、衣類には見られないので確認したところ、「それはハラーム」とのことでした(おそらくそうした衣類自体は存在するが、エジプトでは一般的ではない)。
 こうした風景は、イスラミック・サイバーパンクといった風で、個人的には非常に面白く眺めていたのですが、形骸化してはむしろ反イスラーム的迷信に陥る、というのも事実で、そうなると「どういう意識で行っているのか」という微妙な内面を問われることになり、非常に面倒な話になります。ですから、法学者的には、一律に禁止する、という(イスラーム的な)方法をとりたいのでしょう。
 このような現況に対する非イスラーム圏、とりわけ世俗化した「先進国」の反応も二面的で、「イスラーム主義の伸長とは恐ろしい」と思われても困るし、「なんだ、イスラームとか言っても、日本のお守りと変わらないじゃないか」というのも、違います。
 確かに、現代エジプトではイスラームが「ファッション」として流行っている面はありますし、世俗社会の人々にとっては、その方がむしろ親近感が湧いて安心するのかもしれませんが、もちろん、イスラーム的には良いことではありません。
 注目すべきなのは、「ファッションとしてのイスラーム」が反イスラームである、ということを、ある程度教養のある人なら、別段宗教家でなくてもわかっている、ということです。これは世俗社会には見られない知的一面です。
 わたし個人の経験として、友人のNちゃんと日本のお守りの風習を話した後、エジプトで似たものはあるか、と問うたことがあります。その時の彼女の答えは、こういうものでした。「ムスハフを持ち歩くと守ってくれる、という考えはある。でも本当は、それはイスラーム的ではないんだよ。迷信だよ」。この台詞を、敬虔な一女子大生が口にできる、ということが、決定的に非世俗的であり、素晴らしいところだ、とわたしは信じています。
 イスラームの面白いところは、「お前はムスハフを持ち歩いているが、それは学ぶためなのか、ただのお守りなのか、ちゃんと勉強しているのか」などとチクチクつっこむ人はいない、ということです。「内面の問題」になると、絶対的な検証などほぼ不可能なわけで、そういう領域で他人を批判したり、一律な思考様式を強制するようなところがありません。どこかの国のように、「本当に謝罪の気持ちがあるなら土下座できるはずだ」などと、内面まで支配しようとして人のプライドを踏みにじるようなことは、まずありません。とても優しいです。
 一方で、「外面」については厳格さがあり、特に性規範については他人でもすぐ介入しますし、ある程度までなら介入が推奨されてすらいます。
 他人のプライドは思いやるが、ケジメはつけさせる、という任侠ワールドです(笑)。
 それにしても、「ムフティは、携帯の呼びかけに応じるのではなく、礼拝の呼びかけに応じるよう、訴えている」という一文は、いかにもアメリカ的な洒落が効いていて、思わずクスッとしてしまいますね。
追記:
 清水芳見さんによる『アラブ・ムスリムの日常生活―ヨルダン村落滞在記』には、聖者廟にお参りしようとする母親に対し、全否定もできず、「お母さん、本来イスラームではね・・」と困惑しながら説明しようとする息子の姿が描かれていました(イスラームでは厳密には聖者崇拝は否定されているが、民間信仰には広く見られる)。

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