「俺はムスリムだ、だから嘘はつかない」。
こういう台詞を、エジプトで無数に聞きました。正直、あまり気持ち良くありませんでした。
一つは、こういうことを言うムスリムは、かなりの確率で嘘つきだからです(笑)。ボッタクリ商人の定番フレーズと言っても良いでしょう。
今ひとつは、ムスリムなら嘘をつかないというなら、ムスリム以外は嘘つきだというのか、という印象を抱いてしまうからです。
当たり前ですが、ムスリムにも良い人もいれば悪い人もいるし、キリスト教徒だろうが無神論者だろうが良い人も悪い人もいて、大抵は100%悪人でも100%善人でもありません。ムスリムがみんな聖人君子みたいな人なら、イスラーム圏には警察も裁判所も要りません。
ですが同時に、今のわたしには彼らがこう言う気持ちは良く理解できるし、わたし自身も「わたしはムスリマだ、だから悪いことはしない(まだシャハーダしてないけど)」と勇気を出して口にしたいです。
「だから」という接続詞が使われていますが、前の半分は、事実と照らせば偽でしかありません。この言明は「ムスリムは嘘をつかない、わたしはムスリムだ、ゆえにわたしは嘘をつかない」の省略形と言って良いでしょうが、大前提が既に間違っています。だから、事実命題としては、端的に偽です。
ですから、この言葉は(分析哲学っぽく言えば)statementではなく、一つの宣言なのです。
「ムスリムだから」という部分は、「日本人だから」でもいいし、「科学者だから」でもいいです。重要なのは、自分自身のルートを引き受け、それに対して責任を持つ、ということです。宣言することで、彼または彼女は、その個人以上のものになる。人間は弱い。だから「みんなの力を借りて」、正しい行いをする勇気を得るのです。
「ムスリムだから」の部分は、何でも良いわけですが、同時に何でも良くはありません。極端な話、「人間だから」でも良いのですが、あんまり無限定になってしまうと、何を言っているやら訳が分からなくなります。
正確に言えば、それは「何でも良かった」のだけれど、今となっては「何でも良くない」「一つしかない」のです。
「何でも良かった」時点は、過去であり、既に過ぎ去り、決定されている。多くの場合、生まれた時点でもう決まっている。だから、そんな選んでもいないものに責任がある訳がないのに、敢えて引き受ける。だから、力になるのです。
責任の取りようもないことに対し、敢えてルートを見出し、責任を取る。そのことでわたしたちはか弱き葦であることを越え、自分以上の力を発揮することができるようになります。それが「人間である」ということです。
ですから、重要なのは、「ムスリムである」「日本人である」の(柄谷風に言えば)単独性であって個別性ではありません。
つまり、「日本人はおしなべて嘘はつかない」などといった、他と比べて特殊である要素は一切必要ないのです。大切なのは、particularであることで、specialであることではありません。
それどころか、この前提部分の力が個別性、つまりspecialな何らかの要素に依拠する、と勘違いしてしまうと、とんでもない暴走に陥る場合があります。「アーリア人は優等民族だから、他を殺してもいいんだ」「日本人は勤勉で秩序を重んじ、中国人などより優れているんだ」等々です。
これらは、誇りある宣言を汚し地に落とすばかりか、背負ったつもりの父祖と共同体の名誉と尊厳を傷つけ、結果的に自らを共同体から放り出してしまうものです。イスラームの名の元に罪を犯す愚かで哀れな人々と一緒です。
大事なのは、ただ単に「それ自身であること」です。特性やら特徴やらは、まったくどうでもいいのです。
日本が経済的に二流三流となり、軍事的・政治的にもか弱く、多くの日本人が詐欺とひったくりで糊口をしのぐようになっていても、なおかつこう言って良いのです。
「俺は日本人だ、だから嘘はつかない」。
逆に言えば、世界の羨む一等国であっても、この言葉を胸を張って言えないなら、そのルートには力も尊厳もなく、彼らは哀れな流浪の民にすぎません。
ドラゴンボールの孫悟飯が、確かセルと戦っている時に、こんな台詞を言いました。
「ボクは・・・ボクは・・・お父さんの子供なんだァーーーッ!!」
冷静に考えれば「だから何やねん」です。実は悟空じゃなくてベジータの子供だったら、女性週刊誌も真っ青の大スキャンダルです。
まぁ、彼のお父さんは確かにちょっと特殊な人物ではありますが、人間誰だって「お父さんの子供」です。ですが、そのことを敢えて引き受け、宣言するということには、事実命題とは異なる特別な力があります。
ペンキ屋のせがれでも、三流プログラマーの子供でも、同じように「ボクはお父さんの子供なんだ!」と叫んで良いのです。
わたしたちは、選んでいないものの責任を引き受けることで、誇りある生き方を選ぶのです。(※註)
何が「日本オワタ」や。何が「海外脱出」や。ヘソで茶が沸くわ。
終わって終わり切れるなら、人生苦労ないわ。失われた十年どころか、エジプトなんか三千年も占領されていたやないか。クルドなんか国もないやんか。それでも自信たっぷりじゃ! 自信ありすぎて迷惑なくらいじゃ!
「自分探し」というと、今では侮蔑的な意味でしか使われませんし、中二病と揶揄されるばかりです。
でもわたしは、「自分探し」をしても良いと思っています。若者だけでなく、歳を取ったっていつでも探して大丈夫です。
ただ、それは「探す」ことではなく、叫ぶために助走を付ける、というだけです。「お前は日本人なんだから日本人らしくしろ」と言われて宣言するのでは意味がないし、力にもなりません。イスラームでも、完全に納得してからでなければ入信は薦められないし、入信しても、何でもかんでもいきなり完璧を目指すのは「良くないこと」とされます。
「自分探し」をしないまま、形だけの空威張りをしたり、「日本の特殊性」を妄信したり、いつまでも自信を持てないでいるよりは、いくつになったって探しに行って良いのです。
ただ、生きて帰ってこい。無事に帰ってくれば、カーチャンそれだけで幸せや。
日本が没落し、中国に占領され、ディアスポラの挙句どこかの難民キャンプでカッパライでしのいでいても、日本人は日本人だ。
その時こそ、AKの銃口を突きつけられながら、こう叫べ。
「俺は日本人だ! だから嘘はつかない!」
※註
もう少し深いことを言えば、「お父さんの子供」であることを宣言するには、特別な重要性があります。「お母さんの子供」ではないからです。
父の承認とは、象徴的・社会的秩序の元で行われるものであり、母に対する身体的・生活的なつながりとは異なります。父を認めることは、象徴経済の内部に自らを位置づけることであり、「我は言葉を使うものなり」という宣言でもあります。
この承認における力は、上で述べた「宣言することによる力」と同種のもので、かつこれに先行する原-宣言と言えます。なぜなら、「宣言することの力」「引き受けることの力」とは、すべて象徴ネットワークに接続し、そこからパワーを借りることだからです。
個別性なんかどうでもいい、引き受け、ただ叫べ!
試論・雑記