コプト教会での銃乱射事件は日本でも報道されているので、ご存知の方が多いでしょう。レイプ事件の報復が動機等、憶測が聞かれますが、本当のところはまだわかりません。容疑者は一応逮捕されていますが、犯行を否認しているようです。

コプト教会銃乱射事件 posted by (C)ほじょこ
警察当局、エジプト人七人の殺害者に「テロ」容疑を問う構え 警察は「陰の扇動者」を追う
第一容疑者は犯行を否認 新たな衝突で家屋6軒と店舗16軒が焼け、2名負傷
本紙の入手したところでは、警察当局は、クリスマス(訳注:コプト教会のクリスマスは1月7日)の夜にナグア・ハマーディで起きたエジプト人七人の殺害の三人の容疑者に対し、「テロ」および故意殺害、宗派対立扇動、武器所持の疑いすべてを、関連するものとして問う構えである。彼は事件について何も知らないと言っており、警察の調書では犯行には身元の分からない「扇動者」がいるとされている。
「ハマーム・イル=カムワーニー」の名で知られる第一容疑者ムハンマド・アフマド・ハサンは、警察に対し、警察官が彼を農場から連行し、血の惨劇について何もしていないのに、友人と共に容疑者として突き出した、と語った。警察は第二容疑者クルシー・アブー=ル=ハッガーグおよび第三容疑者ヒンダーウィー・サイードに聴取を行い、取調べのためにこの三人を十五日間拘留する。
一昨日夕、ナグア・ハマーディのいくつかの地域およびその親戚筋の移住している村で、六時間に渡り新たな衝突が起こった。六軒の住宅と十六軒の店舗が焼かれ、二名が負傷した。その後、事態収拾のために治安部隊が催涙弾で介入した。衝突は、およそ二百名の若者が 犠牲者の名前を叫び、治安部隊に罵声を浴びせた後に起こった。攻撃のあった村の何十人もの若者が通りに出て、石や棒や卵を投げもみ合いになった。治安部隊が事態を収拾したのは、土曜日早朝二時だった。
事件の背景に、ムスリムとキリスト教徒の対立があるのか、はっきりしたことはわかっていませんが、コプト教会のクリスマスに教会で銃撃したとあっては、そうした要素を疑われても仕方がないでしょう。
仮に犯人がムスリムであり、宗教対立が背景にあったとしても、もちろん犯人たちはマトモなムスリムではないし、ただの犯罪者です。
ただ、以下のようなよく聞くムスリムの意見には、少し疑問も抱きます。
「テロリストはムスリムではない。ムスリムの一人が犯罪を犯したことで、なぜイスラーム全体を敵視するのか。マルワさんがロシア系ドイツ人に殺されたからといって、わたしたちはドイツ人やロシア人やキリスト教徒を敵だと思ったりはしない」。
この言説は尤もであって、たまたま犯人がムスリムであったことでイスラーム全体を敵視するような姿勢は、いかなる関係にあっても厳に慎まれれるべきものです。
しかし、犯人たちが、たとえ口先だけでも「イスラームを口実として」「イスラームの名の元に」罪を犯したとしたら、ただ単に「あんなヤツらはムスリムではない」というだけでは、済まされないものがあります。
「あんなヤツらはムスリムではない」という気持ちは大変よく理解できるし、こうした言葉を口にする時、わたしたち(敢えて「彼ら」ではなく「わたしたち」と言おう)の多くは、責任回避やとばっちりが来るのを避けようとしているわけではありません。
しかしそれでも、わたしにはどこか無責任に感じられるところがあります。
彼らは「ムスリム」ではない。少なくとも、マトモなムスリムではない。
にも関わらず、彼らの一部はイスラームを旗印としてしまったわけであって、そうしたムスリムを生み出してしまったことには、イスラーム社会全体として、責任の一端はあるのではないでしょうか。
子供が犯罪を犯したからといって、親兄弟が裁かれて良いわけはありません。社会的な誹謗中傷が向けられるのも間違いです。
しかし、親が何の関係もないかといったら、それも少し違います。誰も責めてはいけませんが、親自身にはやはり、自身を問い詰め、思考する義務がある。「あんな子はうちの子じゃありません」では済まないし、仮にそう言いたくても、口に出してはいけないでしょう。
だからこれは、「親」の、イスラーム共同体そのものの、内面の問題です。
非イスラーム圏、あるいは非ムスリムからイスラームへ向けられる誹謗中傷には、断固として反対します。
しかし、イスラーム共同体内部に仕事が残っていないと思ったら、それは大間違いです。
我々は思考しなければならない。なぜ、わたしたちの子供が、わたしたちの神の名の下に、その名を汚す大罪を犯してしまったのか。いかにして、これ以上の罪を防ぐのか。
幸か不幸か、わたしたちにはまだたくさん「子供」がいます。
わたしたちの子供を、審判の炎から守ることが、わたしたちの義務でないとしたら何でしょうか。
