ニカーブに関して、非常に面白い記事がありました。ニカーブ女性との結婚について、色々な立場の男性の意見を取り上げたものです。主に未婚男性のものですが、実際に奥様がニカーブを着用されている方の意見も収められています。
「ニカーブって何?」という方は、以下の関連記事などをご参照下さい。現在のエジプトにおけるニカーブの位置付けについても、簡単に触れてあります。
二カーブ禁止撤回、ニカーブ支持者の理屈
タンターウィ発言の問題は、ニカーブの是非でもイスラーム主義の是非でもない

二カーブ女性との結婚 posted by (C)ほじょこ
ニカーブ女性との結婚 誰も顔を見ていない人と人生を共にできますか?
「彼女が外に出た時は、何も心配しない。二カーブ女性は、他のどんな女性より、家の中では見た目に気を使うんだ」。ムハンマド・マフフーズ(コンピュータ技師)は、このようにニカーブ女性との結婚への情熱を語る。ユスラー・イル=アミール(番組プロデューサ)はこの意見に同意するが、ニカーブ女性との結婚は人生の夢だ、と表現する。なぜなら、彼の考えでは、ニカーブは敬虔さと恥じらいの象徴であるからだ。彼は、この衣装を、その生活の中での誤りを隠すために着用する女性がいることを認めるが、それが一般的だ、ということは認めない。この言葉が当てはまるのは、10%にも満たないからだ。
ハサン・イル=バーシャー(アフワーギー(訳注:マクハーの労働者))は、この考えに激しく反対する。「わたしはニカーブ女性は好きじゃない。というのも、わたしは大衆的な地区に住んでいるのだけれど、多くの二カーブ女性が、この衣装を、隠れて悪い噂になるようなことをするのに使っているのを見てきたからだ。キチンとしたニカーブ女性はいるが、敬虔な人とそうでない人を区別するのは、わたしには難しい。だから、彼女たちに対応するのも好きじゃない」。
順番が回ってくると、バハーゥ・アワド(ジャーナリスト)は、ニカーブ女性との結婚を否定する。なぜなら、彼の意見では、ニカーブは宗教の行き過ぎだからだ。彼は言う。「わたしは、自分の子供を宗教過激派が育てるのは受け入れ難い。ほとんどのニカーブ女性の動機は、路上での嫌がらせを避けるためで、別に敬虔ではない。証拠に、彼女たちは婚約パーティーに出る時はニカーブを脱ぐ。しかし、わたしの好きな女性が、結婚後にニカーブを選ぶというなら、わたしは確実に同意する。なぜなら、これは彼女の自由な選択だからだ」。
バハーゥが拒んだからといって、ニカーブ大賛成の人々の情熱を止めることはできないようだ。ムハンマド・サービル(技師)は、未来の花嫁の条件に、ニカーブの「義務」を果たしていることをあげる。「主の義務を受け入れない女性との結婚など想像もできない。また、わたしは、誰であれわたしの妻の顔を見られるのは好きじゃない。わたしは嫉妬深い男だからだ。今の女性にニカーブを流行として着用している人がいるのは、悲しい」。
イッザトゥ・マフムード(教師)は、我々の東洋社会には、妻が守らなければならない厳格な習慣と伝統があり、その中には夫を尊敬しその嫉妬を認める、というものがある、という。他の男に見られたがってはならないのだ。それゆえ、妻がニカーブを着用することは、自分自身と夫を尊重することなのだ、という。
教育委員会数学部のヤーシル・クトゥブ博士は、ニカーブ女性との結婚に反対する。結婚する者は相手の性質を知らなければならないし、ニカーブではそれができないからだ。結婚前に顔を見ることができたとしても、他の人にどう接しているのか、判断することはできない。
労働者の「ムハンマド」は、彼の妻のニカーブにより受けている辛さを、こう言って表す。「わたしの妻は、以前はヒジャーブをした慎み深い女性だった。ところが、突然、姉妹たちの慣習を真似てニカーブを着用し始めた。これにはとても窮屈な思いをしている。というのも、今では招待されたパーティーやクラブに一緒に行くことができないからだ。もし彼女が結婚前からニカーブをしていたなら、婚約を拒んでいただろう。今では彼女にニカーブを脱げとは言えない。言ったら大変な重荷を背負うことになるのでは、と恐ろしいのだ」。
ご覧の通り、ニカーブに関しては実に意見が分かれています。イスラームに由来するものなのかどうか、イスラーム的だとしても義務なのかどうか、様々なレベルで多様な意見があり、「イスラーム復興」と一括りにはできないのが現状ですし、まして「イスラーム原理主義の伸張」などと解釈するのは妄言に近いです。
少し本題から外れますが、記事中で自ら「嫉妬深い」と言う男性がいたり、「夫の嫉妬を認めるべき」という意見があるのは面白いです。
イスラームというよりアラブの文化において、嫉妬とか羨望というのは非常に重要な位置を持っていて、羨望や邪視を巡る民間信仰が残っていたり、クルアーンにも羨望の恐ろしさについて触れる箇所があったりする一方、嫉妬を抱くこと自体は「悪」ではなく、むしろ他の男と話していても嫉妬もしないような男は評価されません。
こうした傾向自体は、別段アラブに限ったことではなく、世の女性は世界中どこでもヤキモチ妬いてもらうのに小細工を弄するものかと思いますが(笑)、少なくともわたしたちに身近な文脈では、嫉妬自体は建前上はポジティヴに評価されず、かつ主題として前景化することも多くありません。
イスラームの面白いところは、「嫉妬」といった素材を正面から扱い、「嫉妬するのは仕方ない、度が過ぎないように制御しよう」というところを、具体的な社会制度にまで突っ込んで扱っているところです。下世話というか、実も蓋もないというか、西洋のキリスト教なら「信仰の領野にふさわしくない」となかったことにされてしまいそうな素材が(聖俗分離的)、堂々と正面から取り上げられるわけです。
イスラームとアラブを一緒にしてはいけませんが、イスラームのこうした要素は、多分に発祥時のアラブ文化の影響下に育ったのでしょうし、完全に切り離すこともできません。
こうした性質と接していると、開けっ広げすぎて引いてしまう面もある一方、堅実極まりなく狂気や暴走の余地の少ない世界だ、と感じることが多いです。正確に言えば、汚いものでも外に放り出さずに中に取り込んでしまうので、最悪でも信仰の枠組みの下に「汚さ」を抑え込んでいる(逆に言えば信仰の場にも「汚さ」がある)、ということです。
