エジプトにおける人口調整とイスラーム

 M女史との授業で、人口爆発のことが話題になりました。
 日本では少子化が問題になっていますが(わたしは個人は問題だと思わないのですが)、エジプトはまだまだ子沢山で、人口調整が大きなテーマになっています。
 一昔前に比べれば、一家族あたりの子供の数は減っているのですが、それでも四人くらい子供のいる家庭はまったく珍しくありません。M女史の母の叔父は、二十人子供がいたそうです。
 一般に、女性の教育と社会進出が進むにつれ、子供の数は抑制されていくものですが、それなりに女性の教育が普及しているエジプトの都市部でも、いわゆる先進国に比べてまだ子供が多いです。
 一つには、育児補助が充実していることがあり、働いている女性が子供を産んだ場合、一年余りの期間、給与が支給されるそうです(未確認)。
 「それは素晴らしい」というのは早計で、まず、もし国庫負担が100%ではないのだとしたら、そもそも結婚している女性の就業が不利になります。実際、いつ子供を産むかわからない既婚女性の採用は敬遠されています。
 そして、人口調整が必要なのだとしたら、これほど手厚い保護はむしろ国家の将来にとってマイナスだろう、ということが、誰にでも思いつきます。仮に補助を出すにしても、一人目の子供だけで、二人目、三人目については減額・カットするような仕組みにすれば、適度な福祉を充実させることができます。
 ところが、エジプトではそれができないのです。
 これは一重にイスラームの影響で、とにかく子供を産むことは絶対的な善であって、これに対してマイナスな政策は、たとえ誰もがそれが必要だとわかっていても、正面切って口にすることができないのです。
 実際のところ、今の都会の若い夫婦は、経済的負担を敬遠し、何年も子供を作らなかったり、子供の数を制限しているのが普通です。政府もしきりに人口調整の重要さを訴える広報などを流しています。
 それでも、法制度的なところには、なかなかメスを入れられない。建前を尊重しながら「ひっそりと」出産を控える分には大分状況が改善しているわけですが、建前そのものを変えようとすると、建前に疑問を抱いている人すら反対せざるを得ない(こういうことは日本でもあるし、どこでもあると思いますが)。わたし個人としては、出産を控えること自体がハラームだとは思えないのですが、そう一筋縄にはいかないようです。
 さらに、イスラームではなくアラブの(悪しき)伝統として、ひたすら男の子が歓迎される、というものあります。
 父親、というより一族が男の子を待望するあまり、女の子が産まれると「次こそ」と何人も子供をもうけ、結果として子沢山になってしまう、ということがあるようです。
 さらに、やっと男の子が産まれたと思ったら、「もう一人男の子を」などと欲深いことを言い出す父親も珍しくないと聞きます。
 こと人口調整については、「家父長制」が絵に描いて額に入れたような弊害を発しています。
 M女史曰く「信仰そのものは素晴らしい、イスラームだけでなく、どんな信仰も美しい。問題は人間だ。宗教の都合の良いところだけつまみ食いして、都合の良いように使っているから、こういうことになる」。
 話が逸れますが、最後のM女史の「当たり障りなく妥当な意見」を聞いていて思うことは、「無神論者」および「特定の宗教を持たない人」に対してどう接するのか、ということです(両者は異なり、日本人の多くは後者であって、かつてのゴリゴリの共産主義者のような「無神論者」ではない)。人口調整などの問題を巡って「宗教そのものが害毒」という言説が、容易に想像できるからです。
 一応イクスキューズすれば、これが「容易に想像できる」のは、わたしが日本人だからであって、ほとんどのエジプト人には、そう簡単に選択肢に浮上してくる発想ではありません。エジプトだけでなく、世界の多くの国々ではそれが普通でしょう。
 「信仰を持たなくても、それはそれで結構」と言えれば素晴らしい、寛大だ、というのが、大方の日本人、というか世俗化した「先進国」の人々の意見でしょうし、教育ある都会のエジプト人なら対外的にそういう建前を述べることは難しくありません。ですが、これは単に世俗的人間にとって都合の良い意見というだけで、別段公平でも何でもありません。
 「信仰の欠片もなくてもなお許可される」などというのは、世俗社会の「信仰」であって、世俗社会のフレームを元に、「信仰」という「一文化」を世の中に配置する発想にすぎません。このパラダイムに乗って、信仰が選択可能なオプションの一つのように語るのは、既に自分の育った社会の激しいバイアスに飲み込まれていると知るべきです。
 「信仰の欠片もなくてもなお許可される」と建前を述べれば、イスラーム世界が世俗社会とほどよい関係を保つ上では当たり障りがないのですが、はっきり言ってそんなものはペラペラの建前にすぎないし、イスラームとしてそんなものを認めるべきでもないし、わたし個人としても認め難いです。
 そういうある種の「頑迷さ」と静かな狂気(制度化され恒常状態を得たホメオスタシスとしての「狂気」)があるからこそ信仰なのであり、そして、この種の「安定した狂気」があるからこそ、今日も昨日と大して変わらない一日が過ぎ、かつそれに大きな苦しみを覚えずに生を果たすことができるのです。
 人口調整のような問題で、一見信仰がネックになっているように見えたとしても、それを外側から見て軽々しく「信仰の弊害」などと言うことはできないし、もとより「選択可能」なオプションとして信仰がある、というフレームが、既に汚染されているのです。
ラムスィース駅
ラムスィース駅 posted by (C)ほじょこ

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