蝋燭で勉強、惚れさせる責任

 水曜日。
 部屋で勉強している時、そばにあったティッシュに蝿が止まる。
 ルクソールのYさんに伝授して頂いた通り、そっとティッシュを持っても、蝿は逃げません。蝿は「接近してくる何か」には素早く反応するけれど、自分のとまっている物体の動きには無頓着なようです(視界の中で不整合な動きをするものに反応しているのだろう)。
 さすがにそのまま机に叩きつけると逃げられそうなので、左手でライターを持って、蝿のとまっているティッシュの方を動かして近づけて行ったら、見事蝿を焼き殺すことに成功しました。
 教訓:周りがみんな同じに動いていたからといって、危ないものは危ない。
 停電する。
 最近割とよく停電しますが、大抵は1、2時間程度で復旧します。また自宅にいないことが多いし、寝ている時なら気付かないので、実際はあまり不便を感じたことはありません。
 この日は勉強している時に電気が落ちました。まだ昼間ですが、室内は薄暗いので(防寒対策で新聞紙とか張りまくってる)、本は読めません。ラップトップはバッテリで動くので、バックライトの明かりを頼っていたのですが、ふと思い出して蝋燭を使ってみました。
蝋燭
蝋燭 posted by (C)ほじょこ
 なかなか風流です。
 まぁ、たまにだから風流とか言っていられるのであって、年中「蝋燭で勉強」を強いられる世界の学生さんには本当に頭が下がりますが・・。
 Nちゃんと一緒に勉強する予定だったのが、連絡の不手際などもあって流れてしまう。
 さらにF女史体調回復せず、翌日も授業が流れることに。焦る。
 木曜日。大晦日。
 前日引きこもりでどうしたものか、と思っていたら、また引きこもって一日勉強しているだけに。
 家の方がマシンの辞書も使えるし、重くて持ち運べないアーンミーヤの辞書も使えるので便利なのですが、部屋から出ないというのは、やっぱり憂鬱です。こういう時、「ちょっと近所を散歩」とかいう選択を気安く取れないのが辛い。基本的に、ここでは道は楽しんで歩ける場所ではないし、歩く度に色んなことが起こりすぎるので(笑)、覚悟をもって散歩に出ないとダメです。
 図書館に行きたいのですが、日系は年末年始で休み、欧米系はまだクリスマス休暇。エジプト的には普通の日なのですが、微妙に不便です。
 金曜日。元旦。
 サッバーク(水道工事屋)が昼過ぎに来てちょっと作業するというので、待っていたら、作業が5、6時間かかるといいます。
 約束もあるし、結局手はずが整わなかったので翌日作業することになったのですが、翌日夕方からそんな長い時間他人が部屋にいると思うと、かなり欝になります。
 Nちゃんの部屋に遊びに行く。Nちゃんの妹の誕生日で、ケーキを頂いてしまう。
 色々質問していたら、さらにご飯が出てくる。もうお腹いっぱいで食べられません。
 食事中に、Nちゃんが「この曲が好き」と、携帯に入れたkiroroの『未来へ』を聞かせてくれる。
 「部分的にしか聞き取れないけれど、すごく暖かい歌なんだな、というのはわかる」。
 こんなベタな歌、日本にいた時はまったく射程内にありませんでしたが、異国で聞くと妙に心に染みます。歌詞の内容も素直で美しく、日本語学習者にはぴったりです。音痴のくせに熱唱してしまいました。
 これが「椎名林檎が好き」とか言われたら、到底歌詞をアラビア語で説明できる自信はないし、それ以前に日本語が聞き取れないかもしれません(笑)。
 質問とご飯のお礼に、歌詞をすべてスクリプトに起こし、解説していく。
 出だしの「ほら足元を見てごらん」なんて、日本人から見ると単純極まりないフレーズなのですが、「ほら」を「أهو بصيのアホ!の感じ(ほら、見て!)」とか、「『ごらん』は非常に軽い命令」などというところから始めないといけません。「『ごらん』はمؤدب(丁寧)?」と聞くので「丁寧だよ」と答えると「先生に対しても使える?」と聞かれます。丁寧だけれど、目上の人に使うのは不自然で、子供に話しかけるニュアンスのある「丁寧な軽い命令」、と、非常に説明的なことしか言えません。こういうのは、本職の日本語教師の方はどんな風に説明しているのでしょうか。
 「歩む」というのは「歩く」のことですが、普通の初級学習者は「歩く」は知っていても「歩む」は知りません。こういう微妙な違いでわからなくなってしまう感じは、フスハーとアーンミーヤの単語レベルでの差異に少し似ています。母語話者からすると「ちょっと丁寧に言っただけ」なのに、外国人から見ると別単語です。
 この歌で唯一少し分かりにくいのは「その優しさを時には嫌がり 離れた母へ素直になれず」の部分でしょうか。ここだけちょっと複雑な心理になっているので、「お母さんが愛ゆえに色々注意してばかりくると、時々鬱陶しいでしょ?」などというところから語ってみます(こういう解釈で正しかったでしょうか?)。
 ストンと落ちない部分は、彼女も少し神経質になって早口で質問してくるのですが、このイライラする感じは日頃アラビア語でイヤという程味わっていてよく理解できるので、辛抱強く穏やかにゆっくりと説明していきます。
 彼女とゆっくり話すのはこれが最後の機会かもしれなかったのですが、彼女が可愛い箱に入ったクルアーンのムスハフ(書かれたクルアーンの本)をプレゼントしてくれる。
 感動で胸が熱くなり、抱きしめてしまう。
 あぁ、わたしは何もお返しできない。東京に来たらずっとうちに住んでくれ。日本の本とか持ってくれば良かった。
 彼女も少し「変わってる」エジプト人だけれど、わたしのことも「変わった日本人だから、これをあげても良いと思った」と言ってくれる。ありがとう。わたしは確かにかなり変わった日本人です。変人で良かった。
 最近の日本の言論を眺めていると、何だか後ろ向きの話ばかりで、焦って徒に欧米に尻尾を振っているように見えて仕方ありません。政府がそういう態度ならともかく、若年層の一般国民がそんな調子で、あまりにも余裕が無さすぎます。
 多少蔭りが見えたと言っても、日本はまだまだ豊かな国です。それとも、「欧米なみ」でなければ、あとは無価値だとでも言うのでしょうか。国力の維持・発展も大事ですが、それがなくなった時に、一切のプライドと希望を喪失してしまうことの方がもっと恐ろしいと思うのですが、多くの日本人にはそういう発想はないのでしょうか。世界中のほとんどの国は「一流」ではないですよ。そういう国でも毎日人が生きて死んでいるんですよ。
 日本の国力が落ちてきていることを心配し、中国に対して神経質になっているくせに、今まで築き上げてきた日本イメージと、それに対して素朴な憧れを抱いてくれている世界中の多くの人々のことを、まるで省みていない。気にすることといったら、アメリカに捨てられないか、だけですか。
 誰に惚れても結構だし、強い人に振り向いて欲しいのもわかりますが、そうやって周りが見えなくなっている時にも、背中を見ていてくれる人はいるんですよ。あなたの見ていないところで、あなたを見てくれている人が必ずいる。だから自信を持たないとダメです。
 惚れる責任もあれば、惚れさせてしまう責任というのもあります。
 そして、惚れた人に振り向いてもらう時には、見えないところで惚れてくれていた人の力、モテのようなものが、暗黙的に後押ししているということに気付くべきです。
 わたしたちに惚れてくれている人だって、まだまだ沢山いますよ。そういう人を「お前なんかにまとわりつかれても邪魔なだけだ」と足蹴にしていたら、惚れた相手にも振り向かれず、惚れてくれていた人も最後には愛想を尽かしていくだけです。
 惚れた相手が振り向くかどうか、そんなことは相手次第の風次第。
 そんなことより、惚れさせてしまった相手に対して、最後までカッコつけて責任取っていきましょうよ。
 「お父さん、空飛べるんやろ?」って言われたら「あ、あぁ、膝治ったらな」くらい言えなくちゃ男じゃないよ。膝治ってベランダから飛び降りて死んでも、立派な日本男児の死に様だよ。

タイトルとURLをコピーしました