土曜日。
話の流れで、日本とエジプトにおける「気遣い」の違いが話題になる。
エジプト人はとにかくおせっかいで、常に人を助けるチャンスを狙っています。頼んでもいないのに「何か問題ない?」「困ったことがあったらいつでも電話してよ!」とやる気満々です。
そして、うっかり「ちょっと体調が悪い」などと口にしようものなら、次から次にお見舞いコールがかかってきて、寝ている暇もありません(笑)。
日本にも「声をかけてあげる親切」というのはありますが、同時に「放っておいてあげる親切」も尊重されます。逆にエジプトにだって、「他人に構いすぎるな」という発想がないわけではないのですが、比率として、圧倒的に「介入派」です。
これが時に鬱陶しい、という話をしたところ、F先生は「それは面白い」と乗ってくれて、「確かに、エジプトでは、こちらから声をかけないと不親切ということになる」と言います。
「わたし個人は、放っておかれても何も感じない。でも、以前に秘書の子が一日だけ体調を崩して休んだのだけれど、次の日学校に来たら、とても悲しそうにしていた。誰からも電話がかかってこなかったのがショックだったらしい。エジプトでは、確かにそういう時は、積極的に声をかけた方が良い」。
あぁ、ついていけない・・・。
F女史に教えてもらった隠れ家的お勉強スペースで勉強。静かで本が沢山あって、天国のよう。
日曜日。
ルクソールでお会いしたAさんを尋ねて某ホテルを襲撃するも、既に別のホテルに移った後。代わり?に噂に聞いていた若い日本人留学生さんとお話する。超かわいらしくて心配になる。なんかドキドキしました(笑)。
月曜日。
二ラウンドの長丁場授業。図書館で、普通のエジプト人にアーンミーヤについての質問に答えて貰う。
アーンミーヤについても大量に質問が溜まっているのですが、授業は今読んでいるフスハーのテクストで一杯一杯で、全然質問する時間がありません。時間がもったいないので、基本的に自習ですべてこなし、分からないところだけ矢継ぎ早に質問しているのですが、それでも全然時間が足りない。
火曜日。
ご飯を奢ってもらってしまう。
四五年連絡を取っていなかったオランダ在住の友人が電話をかけてくれる。感動。ちなみに時差は一時間。ヨーロッパは近いですね。
オランダはビザが厳しいらしく、彼女が突然「日本もEUだったらいいのに!」と物凄いことを言い出す。トルコだってなかなか入れないのに、無茶言うたらあかんがな。
でも本当に、日本がもう少し近かったら、往復も簡単だし時差も少ないし、とても楽しいのですけれどね。
そんなことを考えて電話を切った後、彼女以上の妄想を閃きました。
日本とイスラエルをかえっこしましょうよ。
何せ神国ですから、シオニストに進呈する約束の地として不足はないでしょう(断言)。で、パレスチナ人に土地を返して、残ったちっこいところにぎゅうぎゅうにみんなで住みましょう。日本人の狭さ耐性と素晴らしい秩序形成能力をもってすれば、なんとかなります。みんな宗教とかテキトーだし、愛想だけは良いから、パレスチナ人ともあんまり喧嘩しない。お上品だから、トルコの次くらいには見事EU加盟。沖には海底油田があるって説もあるし、ウハウハですぜ。
ネタです、一応。
水曜日。
夜にとうとうAさんと再会。延々とカフェでダベる。
今後のこととか、イロコイ話とか、超楽しかったです。
彼女は世界中旅している旅プロで、カイロ引きこもりなわたしと違って、本当に色んなことを知っています。
「キリスト教圏の国は治安が悪い」と言うので、「アメリカやヨーロッパのキリスト教徒なんて名前だけだし、キリスト教じゃなくて近代化の問題でしょ」と返したら、興味深いポイントを指摘されました。
「中南米の国のほとんどはキリスト教で、かつ未だ伝統色が強く、信仰も根強い。にも関わらず、犯罪は非常に多く、治安が悪い」。
中南米というのは、まったく視野の中にありませんでした。
ことを宗教に還元してしまうのは大変危険ですし、彼女もわたしもそんな還元を本気で信じてはまったくいません。ですから、まったく根拠薄弱な連想にすぎませんが、キリスト教圏に一般的に見られる「信仰と世俗の分離」には、以前から疑問があります。
「信仰と世俗の分離」というと、多くの日本人はむしろポジティヴにとらえるでしょうし、政教分離に反対しようとか、神権国家を翼賛しようという気はありません。政治体制というより、大衆に共有される思想的基盤について考えています。つまり、「政教分離」ではなく「聖俗分離」のことです。
思想的基盤として「信仰と世俗の分離」は、世俗のところで悪どい真似をしても、信仰の世界に行って懺悔すれば許される、というようなイージーな「宗教の使い方」に堕ちてしまう危険を孕んでいます(もちろん、まともなキリスト者にそんなアホはいないでしょうが、どんな国のどんな宗教も、大半は「あんまりお上品ではない信仰者」が占めている)。
ごめんで済んだら警察要りません。
イスラームは社会の隅々まで介入しようとする傾向があり、「信仰の世界と世俗の世界」という二分的発想が非常に希薄です。わたしとしては、戦争にすらコミットしようとするイスラームの「天網恢恢」な勢いを大変肯定的にとらえています。ストリートを監視できないような弱い神様は要りません。神様なんだから、戦場でも売春宿でも、至るところに介入して当然です。そして、良い行いと悪い行いがある以上、許す専門ではなく罰する力もあるのは至って自然なことでしょう。許す専門の神様なんて、都合の良いゴミ捨て場にされるのが関の山です。
世の中には、許されることと許されないことがある。
この身も蓋もないことを粛々と実行しているのがイスラームで、大変地に足がついているのですが、一方で「宗教」というものに日本人の多くが期待する性質とは一致しない、というのもよく理解できます。全然「超越的」ではありませんから(一部のスーフィズムやイスラーム哲学を除く)。
少なからぬ日本人の抱くであろう反感に対し、別に反論しようという気はありません。本音を言えば、直観的には、むしろそちらの「分離型」の発想の方がしっくりくるくらいで、わたしのイスラームへの接近は、直観に抗いザラザラしたところを無理に進むところから始まっています。人一倍「超越的」な信仰世界に惹かれながら、それを信仰の枠内で地に繋ぎ止める、という運動が、イスラームへわたしを招いていったようにも思いますが、これはまったく個人的なお話。
繰り返しますが、この話は茶飲み話の流れで出てきた思いつきであって、本気で宗教に還元し説明するような思想には反対です。また、仮に相関性があったとしても、因果性があるのかは怪しいですし、またこの性質が教義に由来するのか、単なる相関的な社会的属性に由来するのかもおぼつきません。
ただ、一般にキリスト教圏の方が治安が悪く、イスラーム圏が全般に治安がよろしい、というのは、単純に事実でしょう。特に「中東」というと、日本では物騒なイメージが強いですが、実際のところは、ほとんどの地域(都市部)は非常に安全です。ニューヨークなんかの方が遥かに危ないでしょう。
シオニストがいなければもっと安全なんですがね(笑)。
木曜日。
休憩を挟みつつ六時間一対一授業。疲れが気持ちよい。
F女史と一緒にメトロで帰る。メトロの車内にある表示が、あちこちスペルミスしているのが話題になる。
エジプト人(アラビア語話者)にとっては問題ない「ミス」なのはわかるし、わたしでも読めるわけですが、正確なフスハーの文法から言うと「間違っ」ている表記というのは、あちこちに見られます。まぁ、日本語だって、おっちゃんの書いた張り紙なんて怪しいものですが・・・。
相変わらずネットが丸一日二日くらい余裕で落ちますが、完全に慣れてしまいました。
「次ネットがつながったらこれやろう、これ調べよう」というメモを、忘れないように書いています。お買い物みたいで楽しいです。

らくだのモニカ posted by (C)ほじょこ
気遣いの違い、聖俗分離の危うさ
エジプト留学日記