クルアーンのユースフ章のタフスィールを読んでいて、ふとしたことからF女史と大変熱い信仰談義になりました。
彼女は敬虔なムスリマですが、外国人との付き合いが多く、非常に柔軟で幅広い知見を持っています。
確かكافر不信仰者مشرك多神教徒ملحد無神論者という言葉を巡り「ムスリムなら、例えば牛の肉を食べる時に与えてくれたアッラーに感謝するが、ほとんどの日本人は牛そのものに感謝する。偉大な山を見て敬虔な気持ちなった時、ムスリムはアッラーの偉大さを称えるが、多くの日本人は山そのものに『神性』を見出す。しかし、ここでの『神』はアッラーのような概念とまったく異なり、神様が沢山いる、という意味ではない」とかいう話をしていた流れだったと思います。
また、以前にも話した「日本人は仏教寺院にも神社にも行くし、時には教会に行ったりすることもある。そういうことを矛盾と感じていない」という話にもなりました。「彼らにとって、そうした場所を尋ねるのは、エジプトの遺跡を訪れるのと大して変わらない。あれはالدين信仰というものではない」と、わたしなりの解釈を語ります(実際、日本人の多くには、الدينという言葉からアラブ人が連想するような「信仰」はないでしょう)。「しかし、だからと言って、彼らが倫理的でないわけではないし、敬虔さを持たないわけではない」。
彼女は「なるほど」というような反応をし、それからこんな話をしました。
「日本人や、ヨーロッパの人たちと付き合っていると、とても礼儀正しくて時間にも正確で真面目な人が多い。中にはイスラームを尊重して『お酒も煙草もやらない、豚肉も食べない』という人もいる。ムスリムでないのに、どうしてそんなことをするのか、不思議に思う。でも、ムスリムなのに不品行を行っている人と、ムスリムでないのにムスリムのような暮らしをしている人、どっちが神様にとって本当の『ムスリム』なのか、時々考える」。
この言葉が、当のムスリムから出てきたことに、わたしは大変感激しました。
そして、わたしが返した言葉はこうです。
「どちらが真のムスリムかと言えば、それはアッラーを信じているけど不品行なムスリムの方だ。もちろん、彼は『良い』ムスリムではない。しかし、アッラーを信じている、というその一点において、彼は紛れもなくムスリムだ。一方、いかに品行方正で、ムスリムのような暮らしをしている人がいても、アッラーを信じていないのなら、彼はムスリムではない」。
ここでわたしが言いたかったのは、いわゆる「道徳」と信仰というのは、別のものだ、ということです。
これは非常に重要なポイントです。
彼女は素晴らしい聡明さで拙いわたしの説明を理解してくれたのですが、これは一般のムスリムが容易にできることではありません。
例えば、彼女は偶然にも、この前日に母親にわたしのことを話したくれたそうです。
「日本人で、すごく勉強家で良い人で、変わっていて、人が好きで、イスラームのこともよく勉強している」(事実かどうかは怪しいですw)。
すると、お母さんはこう答えたそうです。
「へー、その子はムハッガバ(ヒジャーブをしているムスリマ)なの?」
「いやいや、彼女はムスリマじゃないよ」
「え、どういうこと!?」
これが市井のムスリムの反応です。
つまり彼らの多くは、道徳と信仰を一体のものとして考えているのです。信仰がなければ道徳もない。品行方正で、かつイスラームについても齧っているくせに、なおムスリムではない、なんて意味不明なのです。
もちろん、信仰には「道徳的」要素が非常に多いし、道徳の中には信仰に起源を持つものが少なくありません。両者には深い関係があります。
それでも、信仰と道徳は二つの別のものです。
信仰なしでも道徳は成り立つし、逆に道徳なしでも信仰は成り立ちます。
この「混同」は、ムスリムではなく、例えば全般に信仰と縁の薄い日本人においても、別の形で見出すことができます。
「信仰のある人が、なぜこんなことを」「信仰というのは人を幸せにするためのものじゃないの」。
こういう発想は、すべて信仰と道徳をごっちゃに考えているところから来るものです。
信仰は人を幸せにするためのものではありません。そんな「ご利益」で動くものは、信仰ではありません。
強いて言えば、神様を幸せにするためのものが、信仰です。人間が幸せになるかどうかは、すべてインシャアッラー、神様の思し召し次第です。
信仰を持ち、正しく実践することで結果的に幸せになる人は沢山いますが、それは神様がそう望んだからです。とても信仰熱心でかつ正しい信仰実践をしていても、不幸な人だっています。
日本人の多くが、異なる宗教に由来する「寺院」を平気で二股かけられるのは、彼らの発想が基本的に「ご利益宗教」だからです。
服屋さんに行って「この服にしようかな、あの服にしようかな。こっちは上司受けしそうだし、こっちは彼氏受けしそうだな。両方買ったらもっといいかな」とショッピングするようなものです。
あっちに詣で、こっちに詣で、ご利益二倍なら尚いいじゃない!というのは、人間が神様を選ぶ態度であって、少なくともالدينアッ=ディーンではありません。
信仰というのは、神様の側が人間を選ぶものです。
人間には選択の権利などありません。圧倒的無力を曝け出し跪くものです。
「以前に、ヨルダンに社会学的調査で長期滞在した日本人の本を読んだ。彼は再三ムスリムになるよう勧められたが、結局改宗しなかった。その理由を『アッラーを信じていないから』と言っている。彼は品行方正な人物だと思うけれど、それはムスリムであることにとって、決定的な要素ではない。逆に、彼の滞在した村にはお酒も嗜むダメなムスリムがいて、自分でも『俺はムスリム失格だ』と言っていたそうだけれど、それでも彼はムスリムだ。なぜなら、アッラーを信じて、それを基準に生きているからだ。改宗しなかった彼の判断は正しい」。
信仰というのは、ご利益を求めて信じることでもないし、道徳的であることでもありません。
信仰実践の中には、社会道徳に沿う部分も沢山あります。「殺すな、盗むな」といった基本的行いから、弱者への配慮、喜捨の義務などは、社会道徳とも一致するでしょう。
一方、礼拝のように、社会道徳上は何の意味もないものもあります。その人がいくら礼拝しようが、世の中には何の影響もありません。人間の中で得している人は一人もいません。
得している(?)のは、神様一人だけです。
また場合によっては、道徳と信仰が矛盾することだってあるでしょう。イスラームでは、厳密に言えば民法的要素までもが細かく決められていますが、社会によってはこれは通念上の「道徳」と齟齬をきたす場合も考えられます。
極端な話をすれば、ある特殊な状況下では、戦争も正当化されるかもしれません。もしも「どんな理由があっても戦争はダメ」という立場を採るなら、これとは矛盾します(戦争を奨励する信仰などというのは、多分存在しないと思いますが)。
戦争という際どい領域に触れてしまったので、少し脱線すると、もし「仮に」イスラームがある種の戦争を正当化したとしても、わたしは構わない、と考えています。
信仰の有無・種類を問わず、世界中で戦争をしています。もちろん、戦争がないに越したことはないでしょうが、とにかく戦争はあります。仮に信仰の名の下に戦争が行われていたとして、それがなぜ特別に非難されるのでしょうか。
多分、その背景には、「信仰というのは人を幸せにするためのものだ」とか「世俗社会はどうあれ、信仰者が人を殺してはいけない」といった、「混同」と甘っちょろい考えがあるのでしょう。
「国家」だったら、人を幸せにしなくても許されるのでしょうかね。
名前だけの信仰を、小奇麗な本棚の上に飾っておいて、劣化ウラン弾でも何でも好き放題に使うくらいなら、信仰と共に戦場に立ち、すべてを共に目撃すべきではないですか。血で汚れた服を脱ぎ捨てないと、祈ることもできないのですか。
戦いもまた、人間たちの世界の重要な一部であり、神様は全部ご存知です。「戦争については、うちは専門外だから」というような神様など、到底信じられません。
もしも、どうしても「正しい戦争」と言わなければならないなら、その時こそ神の御名の下に語るべきです。その言と心中する覚悟がないなら、「正しい戦争」などと口走らないことです。銃口を向け、その時神が共にないなら、バレルを下ろさなければならない。神が共にあるなら、迷わず引き金を引け。
話を戻します。
信仰はシグルイであって、道徳の教科書のような小奇麗なものではありません。
道徳と信仰が矛盾するなら、たとえ謗りを受けても、神様のために尽くすのが信仰です。
多くの信仰は、社会道徳とも矛盾しないし、むしろ社会道徳を推進してきたからこそ、今日まで世の中とうまくやってきたわけですが、それは信仰において一番大事なことではありません。
こうして、道徳の飾りを剥ぎ取った後に残る信仰というのは、非常に純粋であると同時に、時に狂気のような荒々しさを備えたものです。
こういう極限の信仰について思考できるエジプト女性と出会えたことは、本当にアッラーの恵みだと思います。こんな話が通じる友人は、日本でもほとんどいないし、エジプトでもそうそう見つけられないでしょう。
ムスリムの中には、彼らの道徳基準がいかに素晴らしいかを力説し、かつ、日本人の品行方正さを見て(まぁ人に拠ると思いますが)、「まるでムスリムのようだ」と言う人もいます。
しかし、そういうムスリムも、傍から見ている日本人も、イスラームについての理解が欠けています。
信仰はそんなお行儀の良いものではないし、ムスリムたちも、外の世界と付き合って行こうと思うなら、道徳性などという安い部分で、自分たちをアピールするのを諦めるべきです。
道徳的であることは、もちろん結構です。
誰にとって結構かと言えば、人間たちにとってです。
人間たちにとって都合の良い人間であることを、多分アッラーは喜ばれるのでしょう。
しかし、重要なのは、アッラーが喜ばれるかどうか、それだけであって、もしアッラーが喜ぶなら、人間たちにとって都合が悪い存在であっても、そちらを採るべきです。
わたし個人としては、アッラーを信じているので、いずれ「悪いムスリマ」になる時が来そうです。「良いムスリマ」は・・・ちょっと無理っぽいかな(笑)。

タンヌーラ5 posted by (C)ほじょこ
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