フスハーとアーンミーヤ

 相手がこちらに合わせてフスハー(あるいはフスハーだと彼が思っている言葉)で話している時、その中でもよくわからない言葉があって、「それどういう意味?」と尋ねることがあります。すると彼(または彼女)は、大抵その言葉をアーンミーヤで言い換えます。
 ごめん。それ、余計わからん(笑)。
 でも実は、こういう場面は、フスハーとアーンミーヤの関係を端的に反映しているように思われます。
 大分以前にS先生とフスハーとアーンミーヤの乖離を扱った文章を読んだことがあって、それは「教育の普及によりフスハーの勝利の日が訪れるだろう」といった超楽観的な教科書的(本当に教科書ですが)見通しで締めくくられていたのですが、「本当のところ、どう思う?」とわたしは尋ねてみました。
 フスハーとアーンミーヤについては、「フスハーこそが正当なアラビア語」「フスハーなんて堅苦しい言葉はもう要らない、アーンミーヤに正書法を与えて国語にすべき」という二つの立場が長年戦っていて、テレビの討論番組などでも扱われているのを見たことがあります。
 S先生はフスハーの先生をしているくらいなのでフスハー支持派なのですが、普通に現実を見ていて「教育の普及ではフスハーが日常の口語になることはないだろう。教育は既に相当普及しているが、状況はそれほど変わっていない。書き言葉や公式な場面ではフスハーだが、カジュアルな場面になるにつれて段々アーンミーヤになってくる。フスハーを普及(あるいは復活)させるには、何より会話でフスハーを使わないといけない」ともっともなことを仰っていました。「子供は学校でフスハーを習う。子供が母親にフスハーの言葉の意味を尋ねると、母親はアーンミーヤで説明する」。これは正に、わたしがエジプトの人との交流の中で起こっていることです。
 といっても、実際に断固フスハーで全生活を送ることは困難です。S先生は「たとえばスークでフスハーを話したら、みんな笑うだろう。だから、なるべくフスハーっぽいアーンミーヤで喋るようにしている」と仰っていました。
 日本人的な感覚からしたら、現実に普及しているアーンミーヤを国語化してしまうのが妥当に見えるでしょうが、言語というのはそんな単純なものではありません。わたしたちは書き言葉と話し言葉が一致しているかのような幻想を抱いていますが、話言葉は常に書き言葉から乖離しています。外国語をある程度以上訓練したことのある方なら、誰でも知っていることでしょう。母国語ではあまりに熟練しすぎてこの乖離が見えないのです。
 強引に「言文一致」させても、すぐに乖離は始まるし、場合によっては言語の持っていたいくつかのルーツが切断され、かえって造語能力が落ちてしまう場合もあるでしょう。
 加えて、フスハーにはイスラームというものすごい強力なバックボーンがありますから、そう簡単に滅びるとは思えません。もちろん、「アラブ」というアイデンティティの礎もフスハーという「一つの言語」に負うところが大きいでしょう。
 また、フスハーを逆に口語化していく、という「逆言文一致」が荒唐無稽かというと、そうとも言い切れません。イスラエルは失われたヘブライ語を現実に口語として復活させました。もちろん、現代ヘブライ語は古代ヘブライ語と同じではありませんが、言語というのは政治的な意思によって相当に「母語として普及」させることが可能なものですし、わたしたちの日本語だって、政治的に形成されて植えつけられたものです。強い政治的実行力があれば、二世代くらいで「母語」を作り変えることは十分可能ですし、歴史上無数に行われてます。
 大体、日本語の「標準語」だって、標準語として制定された時点ではただの東京弁であって、それを力ずくで日本全体の「国語」にしただけの話です。それでも書き言葉に細かいイントネーションが反映されないことが、逆説的にも国語的統一感、一つの日本語というファンタジーを支えているといえます。
 誰の主張だったか、残念ながら失念してしまったのですが、日本語の「言文一致」を、書き言葉に話言葉を合わせる、という方向で行うべきだった、と主張している論者がいました。無茶苦茶なようですが、必ずしも夢物語というわけではありません。

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