
エジプトのアイデンティティ新聞記事 posted by (C)ほじょこ
エジプトのアイデンティティについて
アムル・イル=ザント
先回のエジプト公式演説は、騒々しい言葉に終わり、そのほとんどが古代エジプト文明の偉大さについて表面的なものである。アラブ諸国について語る時には、この演説は語気を荒げる(「ショーヴィニズム」には事欠かない)。最近のアルジェリアとのサッカー危機において、いくらかの者たちが、突如「アラブ」ではなく「古代エジプト人」であることを明かした時に見たように。しかし、古代エジプトとその現代における子孫との関係、両者と現代世界との関係という問題は、今日産まれたものではなく、エジプトおよびその思想家たちの多くの著書において、二十世紀の前半より機能していたもので、それは今では目にすることのできない真摯さに特徴付けられるものだった。
前回の記事で、わたしはルクソール訪問の体験と、その主と、わたしたちの古代文明の神話--輝かしきファラオの建築において、今この地に具現化されている--および、その時代において学問と芸術と思想の泉であり誕生であった学問的進歩、哲学、ギリシャにおける重要な芸術、についての考えを語った。
カイロに戻り、事務所で、二十世紀前半のエジプト知性における、古代エジプトの影響の跡およびギリシャと西洋の発展との関係について調べ始めた。この問題は些細なことではない。というのも、このテーマについてのエジプト思想家の仕事は、非常に豊富だからだ。まず、ターハー・フサインは、現代エジプトを「地中海」文明--その基礎はエジプト・ギリシャ・ローマ文明にある--の一部とみなした。ナギーブ・マフフーズは、古代ギリシャ演劇の構成技術を参照しつつ、その最初の三作の小説を古代エジプトの遺産を礎に築いた。ルイス・アワドは、ギリシャの「ボルメテウス」神話についての深遠な研究により、アメリカ・ブリストン大学にて誉れある博士号を手にした。
彼ら(とその他大勢)すべてにとって、重要なのは、エジプトとギリシャの関係および現代世界の関係であり、それは(相当の範囲に渡り)両者の共通の遺産の上に築かれている、ということだ。しかし、本当にわたしが注意を引かれるのは、タウフィーク・アル=ハキームがターハー・フサインに宛てた1933年の文書だ(「太陽の元に思想」全集に収録)。その中で彼は、エジプトの神話と芸術と、秩序立てられた理論的思想の関係について語っており、その芸術とは「論理の本性と調和であり・・・事物に内属する論理の本性および内的調和、すなわち物と物とを結びつける法則であり・・・すなわち、この秘められた工学的調和なしのピラミッドの美はなく、この光ある法則によってこそこの質量の石が組み立てられた、内的な知的美・・・事物の内的論理はそのすべての美が真実であり、これが古代エジプト人が知悉していたことである」。
この下りを読んだ時、これこそが、わたしが「ルクソールにおける学問と神話」の記事で言いたかったことだ、と確信した。この記事で、論理的・学問的理論的思想の伸長における古代エジプト神話の役割について触れた時のことだ。アル=ハキームは言う。「芸術家こそが論理を知った最初の人間である。ピラミッドを築いた論理は、世界を構成する論理の写しが宿っている」。わたしは(ピラミッドより)ルクソールの神殿群こそが、これを証す具現化の好例だと考えているが、アル=ハキームの表現は、当然ながら、わたしの意図していたものより知恵深い段階に達している。
現実の構成と調和する思想、およびこれを支配する厳密な秩序が存在するという決定論、この両者こそが、学問的思想の基礎を具現化するものである。一方、知的技術を知的プログラムに応用するのは、副次的問題だ。アル=ハキーム曰く「目的は重要ではない・・・意味のすべては過程にある」。すなわち、秩序立てられた理論的論理のことだ。これは古代エジプトで具現化され、ギリシャで発展し、後にルネッサンスとヨーロッパにおける啓蒙の時代の礎となった。
一人アル=ハキームだけが、学問的思想の論理を、それを具現化した神話と古代芸術の源泉と見たのではない。数学者で偉大な哲学者のアルフレッド・ノールス・ホワイトヘッドもまた、次のように述べた時、このことに気付いていた。ギリシャ悲劇の戯曲は、近代科学の論理による最初の技巧である、というのも彼らは、世界を自然法則と厳密な本性の支配する具象と見ていたからである。「エジプト芸術の源泉」に関する記事で、アル=ハキームは、ギリシャ悲劇はそれ自体エジプトに根を持つものだ、と示唆している(このことを、前のエジプト遺跡庁長官アティーン・ドリヤトーンが彼に送った研究により例証している)。
これらは、古代エジプトの遺産に対する、思想的余波のいくつかである。わたしたちの現代エジプトは--わたしはリベラル時代のエジプトと考えているが--エジプト、ギリシャ、ヨーロッパおよびアラブ文明の混ざったものだ。
アル=ハキームがその最期の時期に仕上げたと思われるいくつかの著作では、アラブの遺産には思想が欠如しているのみならず、表現における象徴性もない、と批判されており、アラブの芸術は論理的構成が貧弱であり、それを表面的な美しさで補っていて、深遠さや偉大さの代わりに飾りだけがある、とされている。しかしながら彼は、わたしたちが深遠にして霊的なイスラームという宗教思想をアラブより受け継いだことを誇りにしており、この思想を哲学的理論的思想に満ちたわたしたちの歴史--現代芸術、学問、哲学の基礎--とつなぎ合わせていくのは、わたしたちの仕事である、としている。これは、実のところ、二十世紀前半のほとんどのエジプト思想家の目標であった。アル=ハキームの成功はターハー・フサインに充てた手紙で、「アラブの基準の横に、エジプトの基準を置くこと」が必要であるとしている。アル=ハキームは問う。「いつかエジプトがそこに到達できるという希望がありますか?」。
このつなぎ合わせを体現することは、エジプトから現代世界への賜物であり得た。しかし、残念ながら、八十年の時が過ぎ、その代わりに今日わたしたちが目にするのは、表面的で狂騒的な信仰、議論と思想の貧困、アイデンティティ形成の抑圧--空虚が人種的・宗教的な翼賛、騒々しく手っ取り早い演説で埋め合わされている--だ。こうした状況で、わたしたちは依然選択を前にしている。
興味のある主題だったので、格調高い文章を四苦八苦して読んだのですが、期待したほどではありませんでした。翻訳はいつも以上におぼつかないので、変なところは100%わたしのせいです。
本文でも指摘されている通り、古代エジプト的なるもの(フィルアウニーなもの)にアイデンティファイする、という思想は、二十世紀前半に流行ったものの、その後廃れていきました。アラブ民族主義が盛り上がり廃れ、イスラーム復興に取って代わられ今に至る、というのが大凡のトレンドでしょう。
「エジプトがエジプトであるとは何やねん」と問うた時、アラブということならアラブ諸国は沢山あり、国民のほとんどがムスリムであるとしても、ムスリムが多数派の国は山ほどあります。だから、革命から遡ること云千年、エジプトが「独立」を保っていた直前(!)の時代、古代エジプトを持ってくることで国家としてのまとまりを確認する、というのは、わからない話ではありません。
しかし、当たり前ですが、古代エジプトの知恵がいかに素晴らしかろうが、今のエジプトの文化・文明は、そこから直結しているものではありませんし、現代エジプト人にフィルアウニーなものを中核とするアイデンティティを抱けと言っても、それは無茶というものです。
多分、ネイション=国民国家という枠組み、本来特殊西洋近代的にすぎなかったこの枠組みに寄って立つエジプト政府の側にとっては、フィルアウニーなもの、というのは、一つの象徴にはなります。おまけに、外国人観光客を呼ぶ素晴らしい観光資源でもあります。
逆に言えば、大衆の意識と遊離したところでネイションを維持しようとする政府に対し、不満を持つ人々がトランス=ネイションなイスラームにアイデンティファイしていく、というのも、ストンと落ちる構図です。
個人的に、ここには共感できるものを感じるし、遺跡に対して何か非倫理的なものを感じてしまうのも、そのせいかもしれません。外国人を無差別に殺す人がいますが、わたしがエジプトの貧しい生まれだったら、そっちに走っていたかもしれません。いやまぁ、そこで殺されるのは外人のわたしなのですが(これは日本や欧州における排外主義とはまったく違う)。
何が言いたいかと言うと、わかりやすいところだけでも「古代エジプト」「アラブ」「イスラーム」と、大きな同一化対象が幾層にも重なり合っているのがエジプトというところで、それぞれのアイデンティティには互いに矛盾するところもある、ということです。この纏まりの無さが、エジプトの問題でもあり、逆に強みでもあるのでは、と思います。
日本のことを振り返ると、一転異様にシンプルな均質性が保たれているのですが、これはむしろ日本が特異なのであって、エジプトの混沌さというのは、多少抜きん出ているにしても、ネイションというものの持つ矛盾をよく表象した「普通」の国家の風景とも言えます。
個人的には、こうした状況で生きる普通のエジプトの若者が、「エジプト人であること」に対してどういうスタンスを取りどういう考えを抱いているのか興味があり、時々話題にするのですが、それはまた、わたし自身が「日本人であること」に対して、いかに振舞うか、という問い巡る過程でもあるのです。
