日本語を学ぶエジプト人、書記体系の音素への逆流

 日本語の勉強をしている女性と知り合いになる。
 話し方はたどたどしいですが、使っているテキストを見せてもらったら、もうかなりのレベルまで学習しているようです。「喫茶店」と漢字で書けました。「喫」なんて、書けない日本人もいるんじゃないでしょうか。
 たまたま住んでいるところが物凄い近所で、電話番号も交換してきました。
 外国人向けの日本語教育は、最初はすべて「です調」で教えます。文法学習上はマイナス面もあるはずですが(マス形=連用形は使用頻度が高いが、終止形の認識がないと活用の展開が理解しにくい)、丁寧な話し方を徹底するのは素晴らしいことだと思います。
 外国人に、やたらカジュアルで下品な表現を教える日本人は、考えを改めるべきです。間違っているのは、その下品な表現の方です(まぁわたしもしますけれど・・)。
 アーンミーヤで喋っているくせにフスハーの素晴らしさを語るエジプト人みたいですが、アーンミーヤにだってスタンダードな表現と汚い表現があって、「これが本当のアラビア語さ」みたいにスラングを教えようとするエジプト人は、必ずロクでもないヤツです。
 英語についても、「本物の英語」とか言って軍隊スラングみたいなのを覚える人がいますが、そんな言葉で喋っても品性を疑われるだけです。わたしたちの方が正しい英語を喋っている、くらいの自負を持つべきだと思います。
 外国人にあわせて丁寧で優しい言葉でゆっくり喋るのは結構難しいものですが、こういう訓練が国語教育の中に取り込まれても良いのではないか、と考えています。英語の場合、「外国人と喋るための訓練」というのが存在します。「日本語を簡素化しよう」という向きもあるようですが、そんなことをしても、破壊されまくった日本語がますます根無し草になるだけです。それより、外国人との会話スキルを教育に盛り込む方が、ずっと対外的に有効だと思います。
 どんな言語でも「丁寧で優しい喋り方」「大衆的な喋り方」「丁寧だけれど難しい喋り方」というのがあります。アラビア語の場合は特殊な事情でかなり極端ですが、日本語も英語も一緒です。この時、大衆的な喋り方に併せて言語を簡素化する、というのは、一番イージーで堕落的な思想です。局面で切り替えれば良いことなのですから、外国人向けに「丁寧で優しい喋り方」をするスキルを磨けば済む話です。彼または彼女の日本語が上達してから、ざっくばらんに喋れば良いでしょう。
 彼女の名前が、トルコ語を元にしたものでした。こういう名前に結構出会います。
 大家さんのお母さん(おばあちゃん)もトルコ語由来の名前でしたし、最近服屋さんであった子も、トルコ語由来の名前で、アラビア語には本来存在しないv音の入った名前でした。
 エジプト方言にはトルコ語由来の単語が結構ありますが、男性の名前ではトルコ語系というのは聞いたことがありません。女性の命名については、自由度が高いのでしょうか。男性よりはバラエティにも富んでいるように見えます(つまり難しい)。
 v音で思い出しましたが、エジプトでは、本来アラビア語にはないv音はفの点が三個になった文字で表し、جがギームになってしまっている関係でj音はجの点が三個になった文字で表します。この二つはエジプト人はちゃんと発音できます。
 一方、p音については代替文字というのを見かけないし(あるのかな?)、アラビア語しかできない人は大抵発音できません。
 vとf、jとgの弁別は容易なのに、pとbは難しく、かつ代替文字が存在しない、というのは興味深いです。
 「発音できないから文字もないのだろう」というのが普通の発想ですが、むしろ逆のようにも思います。どんな言語でも、ネイティヴが文字と照応させて「発音している」と信じている音と、実際の音の間には乖離があるものです。わたしたちは、想像以上に文字体系に汚染されているのです。
 「ヴ」の音だって元々の日本語にはありませんでしたが、「ヴ」表記が一般化するのと、一般日本人がこの発音を習得するのは、並行的だったのではないでしょうか。
 文字は分節articulationそのものを表象するものですが、分節を明示することで、逆に音素体系が揺さぶられる、という現象はあるでしょう。rとlも文字体系の中に強引に取り込んだら、そのうちみんな自然にできるようになるかもしれません。
 どこかで「カタカナはよく出来すぎている、常に見たままに読める」という能天気な記述を見た覚えがありますが、それは順序が逆で、日本語の「観念上の」音素体系がカタカナ・ひらがなの系列と一致しているだけの話です。
 「観念上」というのは重要で、例えばサ行やタ行なんて段によって子音が違うのに、みんな整合的にできていると信じています。
 子音のみの音もnしか表現できないし、別に完全でも何でもないです。
 短母音が原則表記されない、というアラビア語の特徴に出会うと、誰もが唖然とすると思うのですが(わたしも最初驚きました)、こういう書記の「欠け」というのは、どんな言語にでもあります。それどころか、こうした「不完全性」はプラスに働く場合もあります。
 例えば、日本語はイントネーションが非常に重要な言語ですが、文字体系のどこにもそれを表す術はありません。「はし」だけでは橋だか箸だか分かりませんし、「橋」は「し」にアクセントがある、と分かるのは、単に覚えているからであって、「橋」という字をいくら眺めても発音のヒントもありません。音と文字の一致とか言うなら、英語の悲惨な状況を見て下さい。
 こうした書記体系が「ダメ」なのかというと、そうではなくて、不完全であるが故に「統一文字体系」を保つのが容易になっている、という面もあります。
 日本語の書記体系は全国的にブレが非常に少ない凄い統一度を保っていますが、実際に音読させたら、地方によってかなり発音の幅があります。その幅が文字に反映されないからこそ、書記の統一が保たれ、誰もが意味を取ることができるのです。
 フスハーを流暢に話せる人が限られているのに、書き言葉についてはフスハー支配がかなり確固としているのにも、似た背景があるでしょう。エジプト人に音読させても、イウラーブ(名詞末で名詞の格を表す母音変化)はファトハタン以外かなりテキトーですし(そして男性名詞のファトハタンは表記される!)、受動態もしょっちゅう間違えます(エジプト方言ではフスハーのように母音変化だけで態を変更する文法がないためと推測される)。それでもちゃんと意味は取れるのです。
 非常に面白いのは、「欠け」になっている部分が重要でないから省略されているのかというと、そうではないところです。結構大事なところが、ポコンと書記から抜けていたりします。
 こうした部分は、しばしばネイティヴスピーカーにとって意識できない文法領域になっていて、外国人学習者を苦しませます。
 この「隙間」の領域こそ、言語という一つの死がわたしたちに憑依し囁いている場のようで、とてもエキサイティングでドキドキさせられます。
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シタデル(アルア・サラーフッ・ディーン) posted by (C)ほじょこ

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