神様夜露死苦! 動物最高! 蝿砂無用!

 わたしがすぐ動物と遊ぼうとするので、親しいエジプト人によく注意されます。
 実際、カイロの街にいる動物たち(野良猫、野良犬、ロバ、馬、羊、ヤギその他)は、衛生的ではないし、ものによっては危険なので、安易に手を出さない方が正解です。
 でも、彼らがわたしを諌めるのには文化的要因もあって、動物と人間の間の溝が、少なくともわたしの感覚よりずっと深いようです。イスラーム的には、何と言っても人間が一番なわけで、動物はあくまで動物、ペットにして部屋で飼うなんてのは邪道、という発想が底流を流れているように感じます。
 わたしは人間と付き合っているよりロバと遊んでいる方が楽しい社会不適応者なので、ロバが暇そうにしているとつい弄って遊びたくなるのですが、ロバなんてのは下等な生き物であって、人間様が付き合って良い相手ではないようです。
 アラブ的な感覚で言うと、美しい動物というのはカモシカとか馬とかラクダであって、ロバは冴えない存在です。働き者だしちっこくて可愛いし、車買うより絶対ロバが欲しい!と思うのですが、ロバの何が至らないと言うのでしょう。馬なんて速すぎて怖いじゃないですか。なんか顔長いし。あたしゃロバでいいよ、ロバで。
 ちなみに、カイロの猫は日本の猫と違って荒んでいます。彼らの餌はデフォルトごみだし、毛並みも悪いし片目のない子も多いです。人間の人口比率と一緒で、やたら子猫を沢山見るのですが、子供のうちに死んでしまう猫が多いのかもしれません。
 フーティー(一人掛けのソファ、仏語由来、「ティー」に強勢)がفوتيهと表記されていて、「なぜفوتيだけじゃダメなの?」と尋ねたら、「第二音節に強勢を持ってくるため」と教えて貰えました。هは発音されないのですが、فوتيةと書いたら「フーティーヤ」と読んでしまうし、فيتيだけだと第一音節にアクセントが来てしまうし、結果的にこの表記に落ち着いているようです。面白い!
 アーンミーヤの「ハーマルブータ」は謎がいっぱいです。
 以前に見かけた「英語圏の新聞は結構修辞的な表現が多用されていて、英語学習教材には向かない」といった記述を、ふと思い出す。
 確かに、新聞というのは意外とかっこいいレトリックが使われていることもあるし、時事的な語彙がないと理解できない記事も多々あるのですが、新聞も難しいというのでは、言語なんて永遠に学習できない気がします。
 「アンタ本当に字読めんの?」という風情の物売りのオバチャンが道端に腰掛けて新聞を読んだりしていますから、新聞なんて誰でも読めるんです。そういう風にできていなければ、売れないんですから。ジャーヒリーヤの詩を読もうってんじゃないんですから、簡単に決まっているんです。
 英語については全然愛がないのでどうでもいいですが、日本における外国語学習は、全般に語彙や表現を軽視しすぎている気がします。TOEICなんて典型です。人生ナメすぎています。新聞読むのに二千も三千も字を覚えないといけない素晴らしい言語の使い手が、そんなあっさりハードル下げてどうするんですか。
 フスハーとアーンミーヤの乖離がこんな激しい国で、ダミ声でバナナ売ってるオバチャンが字を読めているんだから、わたしに読めないわけがないんです。あたしゃこれでも大学出てるんだよ! コンチクショウ!
 我が家の電気のスイッチの一つがバカになっていて、普通に押したぐらいだとバネで戻ってしまい、スイッチを切ることができません。寝る時は「ハッ!」と掌底で叩き込んで消しています。時々、それでも寝ている時に勝手にスイッチが入って、超ムカつきます。
 ちゃんと修理しようとせず、対処療法の連続でしのいでいる辺り、既に脳がエジ化している気がします。
 道端でティッシュ売りの少女を見る。まだ小学校一、二年生くらい。
 よくある風景ですが、この少女は、一応ティッシュを並べて客を待ってはいるものの、一緒に汚れた教科書を地べたに置いて、一心にノートに書写しています。
 わたしが1ポンド置いてティッシュを取っても、まだノートに集中しています。
 「勉強してるの? 勉強は大事だよ。役に立つから、絶対続けてね」と言うと、やっと顔をあげて、無言のまま僅かに微笑んでくれました。手を振ると、ちゃんと手を振って返してくれます。
 これくらいしかできなくてごめんよ。わたしも帝国主義者の犬だ。
 革命しかないよ革命しか。革命は任侠なんですよ。どっちに走ればいいやらわかりゃしない。コンチクショウ。
 最近見かけた、素敵ロゴのトゥクトゥク。
パンキッシュなアッラーフ・アクバル
パンキッシュなアッラーフ・アクバル posted by (C)ほじょこ
 الله أكبر(アッラーフ・アクバル 神は偉大なり)と書いてあります。
 この手の文句が書いてあるのは、「宗教的な場所」にまったく限られず、普通の商店やら屋台やらタクシーやら、至るところにステッカーなどで貼ってあります。日本で車に交通安全のお守りをぶら下げているくらいの身近なノリです。
 それは良いのですが、このトゥクトゥクは「アッラーフ・アクバル」のロゴがパンキッシュで、どちらかというと悪魔っぽいです。トゥクトゥクの文化は、マイクロバスやタクシーの更に十倍くらいヤンキー的で、無意味にサイドミラー十個くらいつけて電飾ギラギラに改造しているのをよく見かけるのですが、この車体は「神様最高!夜露死苦!」みたいでちょっとウケます。
 魚売りの少年。

 「写真撮らせてくれ」と言ったら、「魚やる」「サバいてやるから大丈夫だ」と言うのですが、出かけしなで、魚なんか貰っても困るので、遠慮させて貰いました(こういうのを断るのは本当に大変!)。
 少年が子供たちを乱暴に追っ払っていますが、こういうのも普通の扱いです。別に怒ってないです(多分)。
 魚に蝿がたかっていますが、蝿のたかっていない食べ物なんてないので、火を通せば全然問題ありません(多分)。
 蝿で思い出しましたが、エジプトの生活の基本は、蝿と砂との戦いなんじゃないか、と思うことがあります。
 というか、人間が暮らしていたら、蝿が湧いて、野良猫や野良犬が湧いてくる(本当に「湧く」という感じで溢れている)のは、本来当然ですよね。衛生的で住みやすい環境というのは、凄まじい営為の果てに勝ち取られるもので、裸で提供されるものではありません。カイロでもこの調子なのだから、もっと田舎とか、スーダンあたりに行ったら、遥かにハードな生活が待ち構えていて、掃除と買い物と料理で一日が終わりそうな気がします。
 砂の脅威は日本にはないものですが、部屋の中でも、一日放っておくとテーブルの上に埃がたまります。モップで床を掃除すると、すぐ泥水になります。これでは下水管が詰まるのも当然です。
 機械にしても、日本では気にしたこともなかった「防塵性能」が非常に重要だ、と感じるようになりました。街中ならいざ知らず、砂漠で自動車が動かなくなったら、そのまま死につながります。兵器なみにタフでなければ、ラクダの方がマシな筈です(そう思うと動物って本当にすごい!)。
 日本ではどんどんお洒落なメカが登場し、古いものは捨てられる一方ですが、「開けて直せる」ってとても大切なことです。「ユニットごと交換」な仕掛けというのは、物流インフラが整備されている場所でしか通用しないもので、ちょっと不便なところに行けば、多少ゴツくてブサイクでも、イザとなれば自分で開けて直せるメカの方がずっと頼りになるはずです。
 日本で捨てられているバイクの大方は、キャブレターを掃除すれば動くようになる、という話を聞いたことがありますが、プリミティヴなメカというのは、掃除一つで復活してくれることが結構多いです。キャブレターというのは、魔法のように精巧なもので、あれを「プリミティヴ」などと言ったら怒られると思いますが・・。
 蝿と砂から逃れるには、ひたすら毎日掃除するしかありません。阿部公房の世界です。
 でも、それが人間の暮らしというものです。系を区切って、その内部だけは支配権が及ぶようにしよう、というのが、人間的な生活の基本でしょう。
 だから、お掃除というのは非常に重要です。人間の基本はお掃除です。
 鬱で自殺しそうになったら、掃除すれば治ります。というか、蝿やら砂やら外敵が多すぎて死んでる場合じゃないです。
 土地は誰のものか、と言ったら、その場所を掃除している人のものです。

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