最近ふと、語学教師は水商売にちょっと似ていないか、と思いました。
語学教師と言っても、例えば日本でアラビア語を教えているエジプト人、というのは該当しません。また日本人のアラビア語教師も違います(他の言語でも同様)。
ここで言っているのは、エジプト人がエジプトでアラビア語を教える、あるいは日本人が日本で日本語を教える、というような場合です。
日本人が日本で日本語教師をする状況を想像すればわかるでしょうが、ただ単に「アラビア語が喋れます」というだけなら、その辺のエジプト人でもみんな喋れるわけです。そんな渋谷で拾ってきた兄ちゃんに日本語を教えさせるようなことをされて、お金を払う道理はありません。
アラビア語の場合「フスハーがキチンと喋れて読み書きがしっかりしている」という明示的要件があるので、渋谷の兄ちゃんほど悲惨なことはないでしょうが、とにかくアーンミーヤを喋るだけなら誰でもできます。
変な先生につかまれば、水商売の女の子が店外デートを渋るように、枠を区切って「あなたの為に時間を割いているのよ」というだけになってしまいます。尤も、良い先生だとしても時間を区切らないと商売になりませんから、どこか水商売的要素はありますし、そのこと自体は悪いことではありません。「専用の時間を決めて、親切に説明してもらう」ことには、それだけで値打ちがあります。決して、語学の先生の価値を貶めよう、というのではありません。
ただ、エジプトで生活し、ほとんどアーンミーヤとはいえアラビア語を喋る人たちに囲まれながら、なおかつ学校に通っていると、「良いアラビア語教師とは何のか」について思いを巡らさずにいられません(実際、お金を払う授業時間は最初の頃に比べ大分減らし、良い友人との時間や独習に割く時間が増えている)。
特に初心者には、良い先生を見分けること自体が難しい、という問題があります。
中国武術には「三年かけて良師を探せ」という教えがありますが、ある先生が「これは嘘だ!」と批判していました。「初心者にはそもそも良師を見分ける目が備わっていない。そんな状態では、三年かかっても良師には出会えないだろう。まず何でもいいから、一年でも二年でもやってみろ。良師を探すのはそれからでも遅くない」。
語学について言えば、初歩の初歩については、日本人なら日本人の先生に教わるとか、日本語で書かれた本で勉強するといったプロセスが、合理的だと思います。「良師」を求めるのはそれからで遅くありません。この段階をクリアしないでネイティヴに教わっても、基本の理解にやたら時間が取られるだけで、お金の無駄です。わたしは日本人に教わった経験は一度もありませんが、幸いこのレベルは日本でクリアしていました。
わたしの考える「アラブ人の良いアラビア語教師」とは、次のような人です。
まず、当たり前ですが、キチンとしたフスハーを使いこなせること。別にクルアーンの先生であったりする必要はありません。基準としては、「カジュアルな話題をスムーズにフスハーで話せるか」というのが有効だと思っています。聞き取りや新聞を読む程度ならほとんどのエジプト人にできますし、「一応喋れます」というレベルも普通ですが、あたかもアーンミーヤであるかのように砕けた調子でフスハーを喋れて、かつ間違えない、という人は限られています。このレベルに達している人は、必ずフスハーについての深い理解があると思います。「硬い話題」ではなく「カジュアルな話題」というところがポイントです。
逆に、フスハーについてのものすごい深い教養を持っている必要はありません。外国人学習者が必要とするのは、そんな高度なものではなく、むしろ基本的なことのわかりやすい説明です。万葉集について語れなくても、日本語教師としての資質にはまったく問題ないでしょう。
次に、「アラビア語をアラビア語で説明できる」「適切な例文を当意即妙に作れる」「アラビア語の類義語・対義語を列挙できる」ということです。語学能力というより、機転が利くかどうかです。英語に翻訳できても、ちっとも偉くありません。そんなことなら辞書でもできます。外国人にストンと落ちる例文を作るのは、誰にでもできることではありません。
「英語ができるかどうか」を基準にする人もいるかもしれませんが、個人的には全然必要ないと思います。むしろ一切英語は使いたくないです。
大抵のエジプト人はほとんどの日本人よりは英語が上手なので(少なくとも上手だと当人は思っている)、そもそもこんな心配はあまり要りませんが、下手に英語が達者だと、やたら英語に言い換えて説明が終わった気になってしまう恐れがあります。「当該言語の中での相対的位置付け」を身体化できなければ、学習の意味がありません。
もちろん、超初心者の場合は英語で説明してもらう必要があるでしょうが、そのレベルは独学なり日本での学習なりでクリアしておいた方が良いです。
もう一つ、エジプト人にアラビア語を教わった人は皆経験しているでしょうが、「おはようー、今日は何しよう? 何でも好きな勉強でいいよ!」というノリの人がよくいます。「学生の主体性を重んじる」と言えば聞こえが良いですが、やはり教師というのは、ある程度リードしてくれる方が助かります。
主体性の乏しいエジプト人に教えてもらう場合、こちら側で意志を強くもち、予め目標を決めてプログラムを提案した方が賢明です。それができるためにも、最悪初歩の初歩は日本でクリアしておいた方が合理的です。
ただ、これも相性ですし、わたしも最初のころはリードを期待していましたが、今ではむしろフリーな方が主導権が取れて都合が良いな、と感じています。
「外国人への対応に慣れている」という点では、海外経験のある先生だと、付き合い易いと思います。
でも現実的には、「海外経験の豊富な外国人のためのエジプト人アラビア語教師」というのは、数が限られている気がします。それだけの経験があるなら、語学教師などより良い仕事があるでしょうから。
教職の方には失礼ですが、語学の先生というのは、多分そんなに儲かる商売ではないでしょう。エジプトで外人相手の教師をするなら、普通の先生より大分稼げるはずですが、観光関係とかの方がずっと実入りが良いはずです(一般の学校の先生の収入を聞いたことがありますが、あり得ないほど安いです)。
なおかつ、元々「エジプト人のためのアラビア語教師(国語の先生)」だったような場合、インターナショナルマインドどころか、非常に黴臭く偏った考えの持ち主の可能性もあります。高校の古文の先生を思い出してください。
下手をすると、「バイト感覚の学生」の方が、人間的に付き合い易いかもしれません。
でも、一番重要なのは、「その人と喋りたいと思えるかどうか」でしょう。
一人でいる時に、その人と喋ることを妄想して、心の中でアラビア語で喋っていれば、それは良い先生だと思います。

日本語教材 posted by (C)ほじょこ
良いアラビア語教師の探し方、語学教師は水商売に似ている説
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