エジプトのフスハー教育事情、根深いニーハオ、知ったかぶり問題

 朝にF先生の授業。
 珍しく早起きして「ラッシュが酷いだろうなぁ」と思っていたら、メトロがガラすきです。考えてみたら、シッタ・オクトーブルの祝日(10月6日 第四次中東戦争の勃発を記念する戦勝記念日)でした。
 F先生とは初めてのアーンミーヤの授業で、滑り出しは「一体何をネタに勉強しようか」とぎこちなかったのですが、一旦喋り出すと、まだ知り合って間もなくネタの蓄積があるせいか、自分でも気持ち良いくらい喋り捲れました。彼女もゆっくり優しい語彙で喋ってくるので、ほぼ100%聞き取れます。「アーンミーヤは二ヶ月半しかやっていない」と言ったら、驚かれました。ただ、「ネタの蓄積」というのは本当の大きくて、ちょっと違う話題になるとついていけないのが容易に想像できますが・・(留学経験のある人は「気がつくといつも同じことばかり話している」覚えがあるはず)。
 彼女は若いせいか、アーンミーヤについても割と整合的に考えようとするところがあり、非常に話し易いです。「جはフスハーでは常にジーム、エジプト方言では常にギーム」と、よくいる「どっちでもええのんちゃう」とか「ギームの方が古い発音で正しいのだ!」というエジプト人とは違います。エジプト人の「ギームへのこだわり」には大いに敬意を払いますし、わたしも影響されてフスハーでもギーム読みすることが多いのですが、ハッキリ分けてくれた方が外国人には助かります(「ギーム読み」は外人にもすぐわかるエジプト訛りとして知られていますが、人によっては「訛りじゃない」というくらい根深いもので、実際、エジプト方言というのは、ちょっとジームの発音が違うような生易しいものではありません。ギーム読みなんてほぼフスハーです)。
 また、表記についても、「アーンミーヤはみんなバラバラで当たり前」という投げやりさがなく、「アーンミーヤにはアーンミーヤなりに最もオーソドックスな表記があり、極力それに合わせるべきだ」というスタンスのようです。というか、これが普通の「国語」です(笑)。
 短い時間で、今のわたしに欠けているもの(表現の蓄積など)を把握してもらえて、有意義な授業でした。「フスハーの表現が時々混ざる」とのことで、その辺をアーンミーヤらしい表現と自由に行き来できるよう鍛えたいです。
 アーンミーヤを文字に起こした教材を読もうとすると、いつも非常にぎこちないです。つい「フスハー読み」してしまいます。何もなしで喋っている時は、下手くそなりに喋れているのに、「アーンミーヤを読む」のは難しいです。基本的に「お喋り用の言葉」なので、それはそれで結構なのかもしれませんが、時々アーンミーヤで書かれた文章などもあるので、この表記にも慣れるようにしていきたいです。
 フスハーとアーンミーヤでコードシフトする時に「違う自分が出てくる」ような感覚について話題にしたのですが、彼女自身(おそらく多くのアラブ人)にそういう感覚があり、学生からもツッコまれる、とのことです。傍から見ていると「微妙に人格が変わる」ように見えるし、最近ようやくわたしもその感覚が芽生え始めたのですが、ネイティヴでも一緒のようです。
 外国語を喋る時には、誰でも人格がシフトするような感覚を抱くものですが(言語習得の非常に重要なポイント)、一つの言語の中でそういうシフトがあるのは、非常に面白いです。
 よくお茶しているDさんとは、フスハー、アーンミーヤ、英語で会話したことがあるし、彼がドイツ語で喋っている現場にも度々居合わせていますが(ドイツ語は一言もわからない)、傍目にもシフトが明瞭です。彼個人について言えば、フスハーで喋っている時が一番礼儀正しく距離ができるので、付き合い易いです(男性全般に言える気がする)。特にフスハーで信仰について語っている時は、彼に限らず多くのエジプト人が、本当に輝いています。F先生とはアーンミーヤの方が楽チンです。
 F先生と各地のアーンミーヤについての話をしたのですが、シリア方言はカイロ方言よりフスハーに近いそうです。逆にマグリブ方言はもっとかけ離れていて、彼女も「全然わからない」と言っていました。
 「どの方言が一番フスハーに近いのか」議論については、どこのアラブ人も「うちが一番正当や!」と言うので決着が付かない、という話をよく聞きますが(笑)、エジプト人の彼女が謙虚にも「シリアの方がフスハーに近い」と言っているので、本当なのでしょう。
 でも、勉強すればする程、最初に感じていた程の「フスハーとアーンミーヤの距離」を気にしなくなり、「確かに喋る時はこっちの方が楽だよね~」という気持ちになってきました。やっぱり一つの言語なのです。道はまだかなり遠いですが・・。
 学校でもアラビア語の授業(「国語」)以外はアーンミーヤが使われている、というのは知っていたのですが、最近ではアラビア語の授業ですら先生がアーンミーヤで説明していることがあるそうで、彼女は「問題だ」と言っていました。
 大家さんの娘が非常にフスハーが上手だ、と言うと、「多分テレビで学んだのだろう」とのこと。
 フスハーのできないアラブ人なんて、漢字の書けない日本人くらい恥ずかしいです。そういう矜持をもって、胸を張って勉強して頂きたいです。
 「お腹の小鳥がピヨピヨ言っている」という表現を教わりました。
عصافير بطني بتصوصو
 「お腹がペコペコ」という意味。超かわいいです! 絶対使いたい!
 授業後外に出ると、正午くらいの一番暑い時間帯のはずなのに、暑くないです。
 ふと空を見ると、雲があります!
雲
posted by (C)ほじょこ
 雨どころか曇の日というのもほとんど記憶にないのですが、雲で日陰になると、本当に涼しいです。ちょっと肌寒いくらいです。
 秋だなぁ、と感じ入ります。
 うちの母が、昔「日本には四季があるから」とか「一年中同じような気候の場所の人間は、刺激がなくてバカになる」みたいな偏見をぶちまけていましたが、四季なんてどこにでもあるし、エジプトなんか一日の中に四季が詰まっているくらい変化が激しいです。日本の気候の良いところは、むしろ変化が乏しく安定していることでしょう。
 いつものように通りのカフェで新聞を読んで過ごす。
 例によって「ニーハオ」と声をかけてきた人がいたので、「ニーハオじゃないよ。シーニーじゃないよ」とにこやかに返したら、「それは失礼」と謝ってくれて、そこから会話が始まりました。
 最近ではもう、すっかり「ニーハオ」にも慣れてしまい、余程虫の居所が悪くなければ、笑ってスルーしています。
 「日本人だ」と言うと、「日本の銀行がギザに新しい博物館を作ったんだ。これはビックビジネスで、俺はとてもハッピーだ」とか、そんな話になったのですが、それだけ会話した挙句、また最後に「ニーハオ」と合掌して頭を下げて去っていきました。
 もう、ニーハオでもシェシェでも何でもいいです。ええ、ヤーバーンもコリアも中国の一部ですよ。普段着はキモーノですよ。日本人は全員忍者でカンフーができますよ。はいはいはい。
 「中国人は天安門広場で『毛沢東は神の使徒』ってシャハーダしないと結婚できない」とか嘘教えてやりましょうか・・。
 アメ大が休みなので、普通の本屋さんにちらっと寄る。
 アーンミーヤの教科書を眺めたのですが、値段を聞くと120ポンド(約2400円)。
 日本でならブックフェチ的に躊躇もしない価格ですが、こちらでのケチ暮らしに慣れた今では、手が震えそうなお値段です。一週間暮らせます。
 どのみちお金がなかったので、「明日アメ大でもう一度見よう」と撤退。
 考えてみると、アーンミーヤについては、日本語による超超入門書とS先生手製のプリント以外、教材らしい教材を使ったことがありません。辞書すら持っていません。アーンミーヤ独自の文法や頻出語彙のシフトについても、口頭とネットだけで覚えました。これもアッラー、そして人懐こい街のエジプト人たちのお陰です。
 アーンミーヤでも色々辞書があるのですが、ゴツい辞書を買うつもりはありません。高級な語彙についてはフスハーのままのものが多いし、安いハンディ辞書だけ、見つけたら買おう、くらいに思っています。
 昨日地下鉄のことを書きましたが、そういえばエジプト人に「日本にメトロはあるか」と聞かれたことが複数回あります。
 悪いですが、こと地下鉄に関しては絶対負けません。「一遍大江戸線の階段歩いて腰抜かしてみろ」とか心の中でえばっています。
 というか、二本あるカイロの地下鉄のショブラ-ギザ線は日本製の車両が使われていて、車両にも「日本から贈られた」みたいに書いてあるのですが、カイロっ子にはさっぱり伝わっていないようです。
 この路線には毎日お世話になっているのですが、見慣れた車両というだけで、すごく安心感があります。対して、もう一本の路線の方は、なんだかヨーロッパくさい車両で、「ツンツンしてんじゃねーよ」と嫌っています。
 なんでしょうね、この意味不明な身内びいきは。わたしだけですか。わたしだけっぽいですね。
 地下鉄と言えば、以前に深夜のサーダート駅で、若者四人組が「四人で3ポンドしかないんだ! 頼むから乗せてくれよ!」と駅員に訴えている現場を見たことがあります。
 地下鉄を値切るってアンタら一体・・・。
 肉屋に羊の生首が転がっている。
 首を落とされた残りがぶらさがっているのはよく見ますが、首だけ落ちているのは初めて見ました。意外と普通です。
 人間の生首が落ちていても、実際に見たら「ふーん」くらいなのかもしれません。
 道で大きな国旗を配っている人がいる。
 祝日なので愛国心を表明しているのかと思ったら、道行く車に国旗を売っている人でした。ホンマなんでも売りもんにするね、アンタら・・・。
 S先生との授業で、有名な「道を尋ねると嘘を教えられる」件が話題になる。
 「知らない」ということを恥と感じるメンタリティによるものだろう、と前に書いたのですが、エジプト人の先生も同意していました。
 もう慣れてしまったので何も感じませんが、この「知らない」と言えない性分には、エジプト人自身も困っているそうです。先生も一度、道を尋ねて言われた通りに歩いたら、一時間かかって同じ場所に戻ってきて、最初に尋ねた場所が目的地だった、ということがあったそうです。
 困っている人を捨て置けない、というアラブ人の性分(というか、多分にイスラーム的な倫理観)も原因の一つのようです。「絶対スルーしない」この性格が、多くの旅人を助けてもいるし、犯罪を見逃さない地域の目にもなっているのですが、困っていそうな人を見つけて、ホイ来た出番だ!と威勢良く出て行くと(こういう時のエジプト人は本当に嬉しそう)、引っ込みがつかなくなって、知らないことも知らないと言えなくなってしまうのかもしれません。
 もちろん「知らないことは知らないと正直に言う」美徳が存在しないわけではありません。知ったかぶりを諌める言葉を教えて貰いました。
من قال لا أعلم فقد أفتى
 「知らない、と言った者は、ファトワを出したに等しい」。
 苦しい訳ですが、أفتىというのは、ファトワ(イスラーム法学者が出すイスラーム法解釈)を出す動詞で、つまり「知らない」と素直に言った人は、余計なことを言わないことによって、素晴らしい情報を与えているのだ、という意味です。
 というか、わたしだけでなく多くの外国人がアラブ世界で感じていることだと思うのですが、この手の「イスラームの知恵」は素晴らしく、それを語る時のアラブ人もキラキラ輝いているのですが、その知恵を全然実践していないアラブ人が多すぎます(笑)。はっきり言って、全然信仰心のない普通の日本人の方が、平均点で見れば、余程「イスラーム的」な気がします。
 ちなみに、今日夜到着予定だった洗濯機は、予想通り来ませんでした。アッラーはわたしに手洗いをお望みのようです。

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