中国のエジプト人 義烏のアラブ人ビジネスマンたち

中国のエジプト人

中国のエジプト人 アラビア語を話す地
 「中国にあっても知を求めよ」。この有名な諺は、最果てに遠い国についての諺だった。本紙は、中国で暮らすエジプト人たちの体験を追い、彼らの抱える問題、情熱、そしてこの新しい社会に適応してく方法を取材した。
 この記事で、本紙は、本当の「エジプト地区」になりつつある中国のいくつかの都市の舞台裏を目撃した。その場所を最初に訪れた者に中国の許す、覇気溢れる空気の中で、アラビア語が飛び交い、アラブの雰囲気が支配しているのだ。中国の義烏市(义乌、義烏、Yìwū)を我々は散策し、「偉大なる中国茶」の喫茶店でくつろぎ、「龍の国」への道で外国人の「警備された者たち」を探した。
マウおじさんの国で 利益を求めてアラビア語を学ぶ
 中国におけるアラブの投資は、簡単な手続きで済むが、言葉の壁が中国の売り手とアラブの商人の間で障害になっている。中国の諸都市、とりわけ義烏市には、「世界最大のスーパーマーケット」でのアラブ人の仕事を簡単にしてくれる商業事務所がある。これらの事務所は、多くの中国人女性翻訳者を頼りにしている。シャウチン・シーはその一人で、ここ中国の事務所で頼りにされている。彼女は、電車で20時間ほどの湖南省(Húnán)から、商業分野での中国語から英語、またはその逆の翻訳の仕事のために、義烏市へやって来た。それはエジプトの事務所の一つを通じてのことだった。シャウチン・シーは「アラブからやって来ている商人のほとんどは、物の安さにつられてきている」と語る。この街のアラブ人の多さがが、シャウチン・シーが母国語の中国語と英語に加えてアラビア語を学ぶ動機になった。「アラブ人の商売が広がっていることを利用しようと思ったんです」。
 中国のすべての物事と同様に、これらのレストランや喫茶店でも、五時が日々の生活の中での区切りの時間だ。仕事は終わり市場は閉まるが、この街にやって来たアラブ人たちは、それよりはアラブの喫茶店(マクハー)に集まる方を好む。それらのほとんどは市の中心部のシマウ・チー地区地区に集まっており、そこで彼らは夜通しお喋りし、アラブの衛星放送を見たり、ウンム・クルスームのようなアラブ人の歌声に耳を傾ける。
 この街には多くのアラブ人がおり、およそ25万人にも達する。これはこの街とその文化に大きな影響を与えており、アラビア語は義烏市において、中国語に次ぐ文句なしの第二の言語だ。ホテルやレストラン、企業や商業事務所やその他諸々が、看板で使っている。多くのホテルが、提供しているアラビア語衛星放送の数を競っており、広告の中でも提供しているアラビア語チャンネル数に触れている。
 アラブ人の存在の影響はこれにとどまらず、アラビア語教育が、ただの娯楽ではなく、この街での仕事に必要なものの一つになっている。アナスは、新疆地区から仕事で義烏にやって来た一人だ。アナスはーーこれはチン・ドゥングのアラビア語名だーーは大学でアラビア語を学んだわけではなく、モスクで勉強したのだ。実のところ、目的は純粋に信仰のためではない。良い仕事のチャンスを得るためでもあった。
 アナスが義烏に来た時は、アラビア語はそれで仕事ができる程は広まっていなかった。アナスは本紙にこう語った。「最初はあるアラブレストランで働きました。お客さんと、できるだけ長く話すようにしたんです。沢山のお客さんと知り合いになって、暇な時間に彼らと一緒にアラビア語で話すようにしました。新しい言葉を学び、わたしのアラビア語は上達し、アラブと中国の商人の間での仲介に使えるまでになりました」。母国語である中国語、学習した言語のアラビア語、この二つが話せることを、アナスは仕事における彼の唯一の資本だと考えている。彼はほとんど毎日仕事に追われている。アナスの確信している通り、義烏に来るアラブ人は日に日に増えているからだ。
龍の国への道 ビザを求める旅
 中国への道は、すべてが整えられていて賑わっているように見える。旅はビザを求めることから始まる。早くビザを手に入れるには、まず中国の経済の動きを観察することだ。この国では、統合的な経済的な奇跡が、マスクス主義から資本主義へ、統治体制を変えることなく移行したことによって成し遂げられた。わたしが中国への初めての旅でビザをとるために中国大使館を訪れた時、わたしは楽観的に考えていた。中国は、わたしの寝室にまでその製品を届けている国だ。龍の国はわたしの訪問を歓迎してくれるように、最初は見えた。特にわたしは、エジプト人のとても小さなグループの一人だった。この極東の国への旅を決めた。この旅は飛行機で地球を半周する十三時間の旅だ。カイロの中国大使館の住所を調べ、ザマーレクのバフガトゥ通りの大使館に向かった。
 通りはザマーレクの他の通りと何ら変わるところはなかった。閑静で大使館の沢山ある通りで、住人は古い貴族階級の人々だ。静かな通りで唯一戸惑うのは、大使館の建物の前に終わりのない長い行列ができていて、閉ざされた鉄の門の前にはエジプト人たちがいて、手に手にパスポートと書類の山、さらにいくつかのカバンを持っていることだ。わたしは今、中国大使館のビザ発給ゲートの前にいる。ビザを求める人だかりの中の一人だ。門衛のところに行き大使館に入れてくれるよう頼んだが、にべもなく行列を指さされただけだった。
 後ろを見ると、行列の最後に大使館前の歩道でビザを待ちながら寝ているグループがいた。そこでわたしは、中国への旅の最初の一夜をいかに過ごすものなのか知った。わたしは希望が崩れ去るのを感じ、行列の終わりから離れて、道にいる人々と言葉を交わした。そこでわたしは、この時期に中国入国のためにビザを求める人が多いのはおかしなことではなく、広東で展示会があるからだ、ということを知った。大使館の前で一晩待ちーーつまり泊まってーー門が朝開くのを待つ、これが「中国の商業シーズン」の通例だったのだ。
 待っている何人かの人から、旅行事務所には、報酬と引き換えに、大使館の歩道で泊まっている旅行者を手伝ってくれるところがある、と聞いた。わたしは、カイロ中心の有名な旅行事務所に赴いた。そこでは職員が、この事務所が提供する「素晴らしい」サービスのために、ビザ発給の倍の価格を要求してきた。わたしは事務所の理屈を拒み、大使館の周りに散らばる「ビザ仲介業者」を敬遠し、通りで夜を明かすことを決めた。ウストゥルバラド(ダウンタウン)のマクハーで長い時間を過ごし、夜中の三時くらいにザマーレクの中国大使館に再び赴いた。予想と違い、門の前には誰もいなかった。門番のところに行き、場所を取っておくために記名させて貰い、ダウンタウンに再び戻った。ビザが取れると確信していた。
 翌朝、わたしは、自分の名前がビザを取得した最初の住人の中に中にないのを見つけた。苛立ちながら、どうしてなのか尋ねた。わたしは夜、最初に大使館に来たじゃないか。答えは用意されていた。大使館の近くの建物の入口にある「即席」マクハーに、中国への旅のチャンスを狙っている人がいつも待っているのだ、と。中国行きのビザを手に入れたい人たちは、このマクハーで夜を過ごし、最初に到着した人が「順番整理」の責任者となり、書類を手に入れ自分の名前と一番を書き込み、それから後に来た人に書類が行き、数が埋まるまで続く、という具合なのだ。最初に通りで過ごした夜から三日目に、やっとわたしはビザを手に入れ、中国への旅を始めることができた。
義烏 中国の敷居
 ほんの十年前まで、今日「世界最大のスーパーマーケット」と呼ばれるものはなく、ただ中国南部の小さな村があるだけだった。この村で一番大事なのは、貧困から逃げるために息子たちを周辺の都市へやることだった。十年の後、状況は打って変わり、住民に見捨てられた村は、中国の内外から最も人を集める街の一つになった。中国の奇跡を飛び越えてきた義烏は、中国経済の中心地上海から300キロに位置し、浙江省に属する。
 始まりは、中国政府が義烏の人々の貧困の苦しみを軽減しようとしたことだった。その時義烏に残っていた人たちは、農業を営んでいた。政府は街に多くの市場を作る計画を始め、他の都市で生産された製造物をそこに向けることにした。中国各地の工場は、製品の送り先を義烏の展示場とし、とりわけ2002年に同市の世界商業センターができてからは、この動きが強まった。このセンターは面積が百万平方メートルを越え、25万以上の品目を扱い、1000以上のコンテナが毎日出荷される。
 住民に見捨てられた村だった義烏は、多くの文化と国籍が入り混じるようになった。世界中から商人が集まり、通りに広がるレストランでは世界中のあらゆる食べ物を味わうことができ、アラブ料理にもお目にかかれる。街にはアラブ色が濃く、商店や工場、ホテルなどの掲示には中国語と並んでアラビア語が見られる。
 この義烏のレストランカフェ「シンドバッド」で、エジプトで立ち上げた会社に残るより中国投資を選んだ技師マフムード・イムラーンは、その物語を語ってくれた。「友人に一緒に中国旅行に行こうと誘われるまで、中国に行くなんて考えたこともありませんでした」。イムラーンは続ける。「ビザは手に入れたのだけれど、一回目は旅行に行くことが出来ませんでした。二回目は、最初にわたしと一緒に旅行するはずだった友人を訪ねるためで、あまり乗る気ではありませんでした。一週間を過ごすだけのお金もなかったから」。
 「義烏がとても気に入り、ここに投資することを考え始めました。一週間後には会社を作っていました。ここではすべてが簡単で、税金も安くて不当ではないし、すべてが秩序だっていて明示されています」。
 簡単で投資の容易な生活はイムラーンを魅了し、最初の訪問での三ヶ月の中国滞在では満ち足りず、同じ年のうちに舞い戻り、二年目は三ヶ月ごとに中国とエジプトで分けて過ごした。この時期に、資本金300万元で貿易会社を設立し、三年目には拡張しエジプトや湾岸の商人たちと仕事を始めた。一年後にはエジプト人のパートナーと衣類工場を中国に作り、カフェレストラン「シンドバッド」を開いた。
 マフムード・イムラーンは義烏で七年過ごしており、一日たりともホームシックになっていない。というのも「アラブ人とエジプト人がどこにでもいる」からだ。マフムード・イムラーンも、他の外国人滞在者も、何年も前から滞在していて何の問題も感じていないが、街は既に膨張を抑制しようとしていて、滞在場所を得るのは簡単ではなくなっている。
 ムハンマド・アリーは、義烏のエジプト人の問題についてこうコメントした。「大使館とエジプト人がまったく別になっています。一人ひとりのエジプト人が自分の問題に直面していて、たとえ失敗してもこれを解決しなければならないのです」。ムハンマドは続ける。「以前にエジプト人の連絡会を作ろう、という動きがあったのですが、個人的な利害のせいで台なしになってしまいました」。
 エジプト人商人で、この街への訪問を欠かさない一人であるムハンマド・サーリフはこう語る。「義烏市はわたしたちの仕事をとても簡単にしてくれた。以前は、多くの中国の街で商品を買い付け、運送のために一つの場所に集めていましたが、今は、想像できるものはすべて、義烏に専用市場があり、お陰で苦労も減り旅費も節約できます」。ムハンマドは続ける。「わたしたちと義烏の関係は、単に商業上の関係だけでなく、精神的な関係でもあります。この街でわたしたちは強く結び付いているんです。一年に何度も訪れなければいられないし、アラブのどの国にでもあるような、一つの村にここがなってくれることを願っています」。
 ほとんどのアラブ商人は、取引をアレンジしてくれる事務所と協力している。あるエジプト事務所のオーナーである匿名希望のミーム・アイン(訳注:イニシャル)は、事務所と商人の関係をこう説明した。「わたしたちの関係をかいつまんで言えば、事務所は、ホテルの予約をしたり、アラビア語や英語の通訳を商人に提供して言葉の壁を取り除く手伝いをしています。通訳はまた、市場での商人の証人にもなります。また、事務所で専用の必要書類を書いたりします。これらすべてのサービスに対し、事務所は5%の仲介手数料を受け取っています」。
 ただし、輸入についてはこのようなバラ色にはいかない、とミーム・アインは語った。そこでは事務所は別のやり方で仕事をしている。義烏市のあるエジプトレストランで働くヤースィル・アブドゥルカリームはこう語る。「中国人の商人と一緒に価格を引き上げている事務所があります。商品の値段が高くになるに連れて、中国人商人から一回、外国商人から一回、手数料を取っているんです」。
 ヤースィルは、イッ=シャルキーヤ県から、エジプトの商業事務所の一つの薦めで、月給4500元(700ドル)で働くために、義烏にやってきた。彼の働いているレストランのイラク人オーナーにとても世話になっており、住居も食事も提供してもらっているという。
中国の偉大なる茶
 エジプトのお茶は中国のお茶とは根本的に違う。単に飲み物の種類として違ったり、入れ方が異なるだけでなく、ここでのお茶は「安くていつでも手に入る飲み物」だが、中国では「伝説の作り出した国家的飲み物」なのだ。伝説によると、ウー・ロング氏が茶の葉を摘み、鹿を捕まえて家に帰ったところ、茶を籠の中に忘れてしまい、翌日にはこれが発酵していたという。彼は茶を乾燥させる方法を考え、沸騰したお湯を注いだところ、「熟成された茶」の発見に至ったのだ。
 中国でのお茶は、どこの家でもどんな場所でも欠かすことができない。中国人がよく言う台詞によれば、中国に家は七つのものが欠かせない。薪、米、油、塩、醤油、酢、そして最後に家になければならないのが、お茶だ。ここ中国でのお茶は、生活のスタイルであり、中国人が消してはならないと考えている伝統に息を吹き込むことなのだ。中国人は競って客を夕方のお茶に誘う。それは家であったり、中国の至るところにある喫茶店であったりする。そのうち最も有名なのが、北京の「ラーウ・シャ」だ。
 中国の茶館は四つの流派に分かれる。一つは北京流で、音楽や大衆物語を聞きながらお茶を飲み、文学者や文化人が集うものだ。一方、広東流は、広東省に由来し、食事の間にお茶を飲む。この茶館では、お茶に高額の料金が支払われ、無料の食事があり、お金持ちのためのものだ。また四川流は、四川省に由来し、中国人らはお茶を飲みながら将棋を指す。そして上海流では、自然の景観の中でお茶を飲むことが好まれる。
 バン・チャン・ミン・チャ茶店で、タン・リー・チンは中国茶の種類を説明し、中国には百以上の茶の種類がある、と語った。それらは味、香り、原産地、そして緑、しろ、赤、黒と色が異なる。また勿論、価格も異なる。この中国女性はしばし考え、それから、最も有名なもので十の種類がある、と語った。

 これは非常に面白い記事でした。
 以前にエジプトにおける外国人との結婚 4というエントリで、タイ在住エジプト人のことを書きましたが、中国にも大勢のエジプト人がいるようです(エジプトにはもっと多くの中国人がいますが)。
 中国の地名や人名のアラビア語表記が沢山出てくるのですが、特に人名はよくわかりません。中国語の分かる方には「何書いてんだ」という部分があるでしょうが、ご容赦下さいませ。
 地名にしても、日本人は原音ではなく日本語読みで覚えてしまっているので、こういう時に問題ですね。

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