ラッパーを壊せ、トロければ待て、お節介になれ

 ルクソールで知り合った在エジプト日本人の方からのメールで、「日本に帰ると、日本の便利さに感動すると共にエジプト人の性格を懐かしく思う」ということが書かれていました。
 この気持ちはよく理解できますが、単なる「離れて想う郷愁」だけではありません。
 わたしのエジプト滞在は(まだ)わずか半年でしたが、帰ってきて感じたのは「静か」「清潔」「空気が綺麗」「何でもスムーズに行く」「会話しないでも何でもできる」ということです。
 これらはもちろん、基本的に良いことなのです。一々値段交渉しないと乗れないタクシーより、メーターが勝手に上がっていく方が楽に決まっています。
 そういう「交渉したりコミュニケーションをとらないでも済む便利な仕掛け・インフラ」が、日本では極度に発達しています。
 休みの日の台詞が、コンビニで「袋いいです」だけだった、なんて余裕でありそうですし、仕事に行っても「おはようございます」「お疲れ様です」「お先に失礼します」の三つしか台詞を言わなかった、という人もいるでしょう。
 便利な半面、これはちょっと病的な状況であって、おそらくはこういう便利さのせいで、「コミュニケーション力」とかいう気持ち悪い概念が流通するようになったのです。
 「コミュニケーション力」って何ですか。コミュニケーションって、RPGの「すばやさ」みたいに力を測るものですか。単位はグラム? メートル?
 コミュニケーションなんて、基本的にはカイロのタクシー値段交渉みたいなもので、鬱陶しいものです。どこの世界でも偉い人は簡単にシモジモと口をきいたりしないでしょう。権力を使ったりお金を払ってコミュニケーションを回避しているからです。それくらいコミュニケーションはウザいものなのです。
 でも、そのウザいコミュニケーションを取らないと立ちいかない場面というのがあって、エジプトでは日本の一万倍くらい「人間の壁」が立ちはだかっています。「ホンマは話なんかしたくないんやけど、このオッサンどかさな何ともならんわ」とかいう状況で、口八丁手八丁で話を始めて、結局目的は達せられなかったけれど、予想外のものが手に入り、別の人間を紹介してもらって、と、わらしべ長者的に進んでいくのが人の世というものです。
 コミュニケーションは止むに止まれぬもの。そして日本の気持ち悪いところは、みんなの願い「コミュニケーションの回避」が、非常に高いレベルでインフラとして出来上がってしまっていることです。
 ところが、幸か不幸か日本の経済はこのところ可哀想な状況を行ったり来たりしています。せっかくですから、これをプラスに考えて、思い切り人件費を下げて、何でも人力でやってみたら面白いじゃないですか。
 仕事のない若者だけでなく、高齢者を「人力システム」で使っても面白いです。自動販売機の前になぜかおじいちゃんが座っていて、おじいちゃんに頼まないとジュースが買えない。しかもおじいちゃんは耳が遠いし、自販機の操作もめちゃくちゃトロい。でも、勝手にジュース買ったら杖で殴られる。素晴らしい。
 ちなみに、こういう「自動販売機操作係」という職は、エジプトに現実に存在します。「食堂のトイレの前で立っていて、トイレに入る人にトイレットペーパーをちぎって渡す係」という仕事もあります。
 こんなことが実現すれば、それはもう、毎日恐ろしくウザいコミュニケーションの連続になるでしょう。その代わり、神経症とか欝とか自殺は、圧倒的に減るでしょう。喧嘩と交渉が忙しくて、死んでる場合じゃありません。
 企業の面接で「コミュニケーション力」が問われることもありません。なぜなら、「コミュニケーション力」のない人間は、就業年齢に達する前に淘汰されて死んでいるからです。
 こういう世界では、他人のトロい動きや話の通じなさに怒ってはいけません。
 超キレキャラのわたしが言うのも何ですが、日本人は非常に怒りっぽいです。そう言われると意外でしょうし、実際日本の街中ではエジプトの一万分の一も怒鳴り声がありませんが、それはただ単にインフラや社会秩序がスムーズに動いているからです。ちょっと秩序から外れたり、思い通りに他人が動かないと、日本人は本当にすぐ怒ります(わたしもそうでした)。これはエジプト人に何度か注意されたことです。
 待ちなさい。
 待っていれば、そのうちうまく行きます。
 ちなみに、これは「スルー力」というヤツとはちょっと違います。スルーはしません。意見が違えば、自分の考えは激しく主張する。
 そうではなく、他人が「機械のように正確に動く」ことを期待しない、ということです。
 日本の発達した秩序というのは、要するにトロくてテキトーな人間のラッパーが出来上がっている、ということです。
 例えば、交通秩序。
 エジプトの交通カオスは有名で、そもそも信号がほとんどありませんが、あっても無視されるし、巡査が立っていてもクラクションの嵐だし、逆走上等な上、しょっちゅう路上で車を修理していたりします。
 ですから、仮に信号があっても、信号なんて見て道を渡ってはいけません。見るのは車であり、運転者の心です。
 これに慣れてしまったので、日本に帰ってきて、逆に危ない思いをしました。信号を見なくなっているのです(笑)。せっかくラッパーがあるのに、車とか人間とか、低水準のAPIを直接叩いてしまっている状態です。
 ラッパーは素晴らしい。直接叩いちゃダメ。
 それは間違いないのですが、一方でラッパーに慣れきって依存してしまうと、何かでシステムが上手くいかないとすぐパニックに陥ってしまいます。ラッパーは良いのですが、依存してはいけない。
 だから「システムは大事だけれど、当たり前だと思わず、常に人間を見ましょう」と言えば、体の良いまとめ方なのですが、本当のことを言えば、そんな高尚な目標はほとんどの人間には達成不可能でしょう。便利で楽な仕掛けがあれば、どっぷり浸かってなしではいられなくなるのが人というものです。
 ですから、敢えて狂ったことを言いましょう。信号を見るな。システムを見るな。法を見るな。人を見て、クールに道を渡れ。
 多分、今の日本に一番必要なのは、そういうことです。
 「システムの有難味を忘れるな」なんてお説教、生まれた時からシステムに浸かりきっている人間に通用するわけがないじゃないですか。
 だから、システムは見ない。というか、ぶっ壊せ。
 まぁ、このまま日本が沈没していけば、放っておいてもメンテ力がなくなって、システムなんて勝手に壊れると思いますけれど。
 最後に、大事なのはお節介ですね。
 つい先日、古い友人から、わたしが直面している社会的な些細な問題について、アドバイスを頂戴できました。わたしは世の中的な仕組みやお役所システムみたいなものに極端に弱く、非常にクヨクヨ悩んでいたのですが、彼の一言で「言われてみれば、大したことじゃないな」と気持ちが軽くなりました。
 彼は別に、100%の確信があってアドバイスをくれたわけではないと思います。でもとりあえず、言ってみる。これが大事。
 根拠の欠片もないのにテキトーなことを断言するのは、確かに良くないことです。多くのエジプト人は、とてもよろしくない(笑)。
 でも、現代日本人の多くは、ちょっと慎重すぎます。セキュリティ・パラノイア。
 世の中100%なんてないんですから、ちょっと怪しくてもとりあえず言っちゃえばいいんですよ。お節介で行きましょう。
 間違ってたら謝ればオッケーです。
 そして間違った人に怒ってはいけない。むしろ、間違ったことでも言ってくれたことに感謝しなければいけません。
 一番悪いのは、情報が間違っていることではなく、情報が無いことです。
 多少怪しくても声をかけてくれた人には感謝しなければならないし、彼または彼女を遣わせてくれた主に感謝すべきだし、自分もお節介にならなければなりません。
 お節介を阻む最大の障害は、「照れ」でしょう。
 照れ屋さんは素敵です。少なくともわたしは結構好きです。でも、時には照れを捨てなければなりません。
 彼への返信で、わたしはこんなことを書きました(一部改変)。

 「(・・・)」と言われて安心した、元気が出た、って書いたけど、正にそういう感じが、日本にはなくて、エジプトにはあるの。
 単にわたしが寂しがりで気が弱いだけかもしれないけどね。
 こういうの、ちょっと言ってもらえるだけで、何でもできる気がしてくる。
 日本人は、薄情なんじゃなくて、照れ屋さんなんじゃないかな。照れてこういうこととか、「確証ないくせに自信たっぷり」なことを言わないけど、照れちゃだめだと思う。

 照れてないで、ガンガン介入しようぜ!
 栄えるも良し、落ちぶれるも良し。
 落ちぶれたら落ちぶれたで、お節介でトロい日本になったらいいんじゃないですかね。
 いずれ主に召される日、良きヒサーブ(善悪カウント)を授かれるよう、精一杯生きればそれでいいじゃないですか。

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