M女史との授業中、ふとしたことから「主語の重要性」が話題になりました。
日本語では主語の位置付けがかなり軽いですが、これは「主語が省略可能」というより、そもそもトピック志向な言語ということで、主語志向言語における主語の省略と一緒にしてはいけません。ですが、そう話しても説明し切る自信は到底なく、「日本語では受動態的な表現が好まれる」と言いました。
アラビア語のフスハーでも、一見「主語の省略」に見える現象がありますが、これは単に動詞の人称変化が厳密で主語を明示しないでも特定できるからで、実際は省略などされていません。アラブ的な文法概念では、日本や欧米で「動詞の活用」として教えられる動詞末尾の部分がダミール(人称代名詞)として説明されるくらいで(女性三人称単数のتは「女性の記号」であって代名詞ではない)、主語はとても大切です(余談ながら、エジプト方言における主語の省略は、普通の「省略」だと思います)。
また、アラビア語には、一応受動態の文法はあるものの、フスハーでもアーンミーヤでもあまり使われず、受動態の多い文章はركيك(か弱い)とされ、評価されません。英語と比べても、受動態の使用頻度は極めて低いです。
つまり、主語志向・能動態志向が非常に強いという点で、日本語とは対極にある一面があります。
日本語における「主語の省略」(前述の通り本当は省略ではないですが)は、時々「責任の不明瞭化につながる」等と、批判の対象になることがありました。手垢にまみれた例ですが、「過ちは繰り返しません」が散々ネタにされたでしょう。
こうした性質は、日本人の文化的性質とも平行的で、わたしたちはしばしば、作用の原因について深く思考することなく、「自然にそうなる」という事物のとらえ方をします。「国敗れて山河あり」の「山河」のような、無名の動力源が、象徴秩序の向こうで自動的に働いている、というような世界観があります。
一方、アラビア語の性質もアラブの性質と相同していて、彼らはとにかく「誰のせいやねん」というのが大好きです。
M女史とالباب مكسور(扉が壊れている。「壊れている」は「壊す」の受動分詞が形容詞的に使われている)という単純な文をネタに話したのですが、そもそもエジプト人は、こういう「誰が壊したのか分からない表現」という時点で軟弱に感じるらしく、すぐ「アフマドが壊した!」「あいつはいつも物を壊すんだ!」「俺も見た!」とか言いたがります。
日本人なら、アフマドが壊したという証拠や確信がかなり整っていなければこういう言い方をしませんが、彼らは大して根拠もないくせに、平気で「アフマドが壊した!」ととりあえず叫びます。
アフマドが連れてこられて「いやいや、俺じゃないよ、その時外に出てていなかったよ」とか言うと、「あぁ、確かにその時アフマドはいなかった!」「俺も見た!」とかいう人が出てきて、やっと皆が「じゃあアフマドじゃないな」となるのですが、ここでアフマドに対する謝罪が行われるより、まず「それじゃあ一体誰が壊したんだ?」という方に話題が流れるパターンがよくあります。
謝るにしても、例の「マーレーシ(怒るな)」という、非常に軽い謝罪で流され、かつアフマドもここで怒ってはいけません。キレると、むしろ「お前じゃないんだろ、わかったからもういいじゃねーか。何キレてんだバカ」とか、非難されるパターンが多いでしょう。
日本人なら、まず優先するであろう「扉の修理」は、常に後回しです。
M女史が、半分笑い話として、面白い話をしてくれました。
「強盗が通行人を襲って、ナイフで刺して財布を盗んで逃げたとする。エジプト人は、まず犯人を追いかける。ナイフで刺された人がいるのに、それより前に犯人をみんなで追いかけて袋叩きにするのが第一。けが人の救助はそれから」。
まぁ、実際は、ナイフで刺されている人がいるのに放置するなんてことはあり得ないでしょうが、雰囲気的には、確かにこういうノリが非常に強いです。
ちなみに、「通りがかった人がみんなで追いかけて袋叩き」というのは、冗談ではなく本当です。全く無関係な人でも、「見て見ぬフリ」をすることはまずありえません。「義を見てせざるは勇なきなり」の精神が溢れかえっていて、かつ結構勘違いな「義」で暴走するのがエジプト人です。
犯罪の聞き込み捜査が行われる場合でも、全然目撃なんてしていないくせに「俺は見た! 中肉中背で、若くも年取ってもいなくて、普通のヤツだった!」みたいに、どうとでも取れることをまずぶちまける人がいるそうです。
とにかく彼らは、「誰がやったのか」ということにこだわりが強く、かつ「知らない」というのが大嫌いです。これが有名な「エジプトで道を尋ねると、知らないのに嘘の道を教えられる」現象につながっているわけです。
日本人からすると「無責任」に映って当然ですが、彼らからすれば、その「責任」を徹底追及しない方が「無責任」で、過ちを恐れて何も発言しない態度もまた「無責任」となるのです。
実際、慣れてくると、彼らの嘘や「知ったかぶり」を見抜くのは簡単です。エジプト人は何でも顔に出るので、目を見ていればすぐ「あーホンマは知らんのやな」とわかります。
おそらくエジプト人自身も、この辺の「知ったかぶり分」を差し引いて考えているので、最終的にそれほど大問題にならないのでしょう。
もちろん「知ったかぶり」をあげつらって非難するような態度はいけません。相手のプライドを重んじ、露骨にツッコまずに流してあげるのが礼儀です。
面倒臭いと言えば面倒臭いのですが、ウェットで人に優しいとも言え、憎めるものではありません。エジプトの文化は極めて家父長制的でマッチョですが、同時にすごくフェミニンだなぁ、と感じることも多いです。

夜の街の子供2 posted by (C)ほじょこ
扉はいつもアフマドが壊す
エジプト留学雑記