議会制秩序は夢物語ではない

 アムル・ムーサー氏のインタビューを取り上げた時、「議員の5%以上の支持を受ける(政党候補の場合)」という大統領選立候補要件の本質的問題は、5%ということではなく、そもそもの議会の構成のされ方にある、ということを示唆しましたが、この問題にも関連し、議会の位置づけについて、非政府系新聞の論者が、政府系新聞の記者に対して、痛烈な批判を浴びせています。
議会制秩序
議会制秩序 posted by (C)ほじょこ

議会制秩序は夢物語ではない
ハージム・イル=バブラーウィー
議会制共和主義は、幾多の例を見るように、民主主義実現を支えてきた統治体制だ
統治における多数派の支配には問題も危険もない。なぜなら、これは民主主義の論理であるからだが、この支配は、権利と自由を保障する憲法による制限を条件とする
 2009年十二月五日のアル=アハラーム紙の「議会制共和国の夢物語」と題する記事で、ワヒード・アブドゥルマジード氏は、「自然は ? 主たる分野で夢物語で、政治、社会、思想、この分野において現在までにわが国および諸外国において現れた最大の夢物語である エジプトにおいて議会制共和主義を確立するという呼びかけは現在、この枠組みを含んでいる」と書いた。これは議論の余地のある発言だ。
 夢物語というのは--わたしの考えるに--個人の精神、または事物に対する集合意識における思い込み、あるいは現実存在を持たない力である。こうした思い込みは、存在しない事物を信じる精神の混乱、もしくは物語が社会的に定着していること、信念、人民に対する一般的意識などに帰せられ得るもので、これらは歴史的事実や自然に根拠を持たない。これらは伝統や支配的信念その他の結果である。これが「夢物語」の了解であるとすれば、議会制共和主義は現実に機能し歴史的に存在しており、これを無視することはできない。イギリス人は議会制秩序の下に生きており、ベルギーやオランダ、スカンジナビア諸国も同様だ。君主制ではないヨーロッパ諸国ということでは、イタリア、ドイツ、ギリシャ、トルコがあり、アジアには日本、インド、タイ、イスラエルがあり、長いリストになる。これらの真実を否定し、議会制秩序を夢物語や、ある種の人々の勘違いによる思い込みだと言うことはできない。「議会制秩序」は歴史的事実であり、好むにせよ嫌うにせよ、夢物語ではない。
 このことから、「夢物語」という慣用表現を用いたアブドゥルマジード氏がの意図は、議会制秩序そのものの存在を指すのではなく、現状のエジプトにおいてこのような秩序の確立を呼びかけること、であるのかもしれない。これはある程度、受け入れられることだ。だからといってやはり、「議会制秩序」の要求を「夢想的思考の類」とすることはできないが。おそらく、即時実行の機が熟していない--筆者(訳注:アブドゥルマジード氏)の考えでは--「政治的プロジェクト」ということかもしれない。適切な条件が揃った時、これが大衆の要求となるのを禁じるものがなくなるなら、ほとんどの改革の呼びかけはそうして始まったのだ。その枠組みにおいて、人民の目から見て、政治的状況または確立されている社会を変えることで状況を改善する機会があるということに正当性があるなら、それこそ、植民地主義からの独立において起こったことであり、人種差別主義秩序の元での平等要求であり、女性の地位改善であり、社会階級状況の改良である。これら総ての呼びかけは、適切ではない状況下で起こったのであり、その後、この多くが、様々な時の多くの国で、成功を収めたのだ。
 こうして見ると、アブドゥルマジード氏は、「夢物語」という慣用表現を、エジプトにおける議会制秩序要求を歓迎しない、という意味で使っているようだ。その利点と効用を疑っているようだ。一般的に言って、政治的秩序はすべて、議会制秩序だけでなく人間の秩序はすべて、長所と短所があるものだ。このことから、支持者と反対者の間でことは異なるし、「議会制秩序」にも--他と同様に--疑いようもなく、いくらかの短所があるだろう。しかし、公平に言って、これにはまた、無視できない長所があり、「議会制秩序」をかつて採用し、今も用いている多くの国において、証明には事欠かない。これらの国はすべて、この秩序を、それぞれの国の状況や歴史や自然に合わせて、改善し適応させたのだ。加えて、エジプトには、議会制秩序への歴史的試みが過去にあり、これに対する不満は、これへの攻撃に対する不満ほどではなかった、ということが、その場において記録されているのだ。つまり1923年の「議会制」憲法は、特別な大衆的場としてエジプトの記憶に位置を占めており、たとえ最大の明証が1952年七月二十三日の朝の革命にあるとしても、「軍隊の運動」の情熱は、この憲法の尊重の上にあったと確信している。
 「夢物語」という考えを議会制秩序の存在ということから遠ざけたとして、この秩序の欠点とアブドゥルマジード氏を苦しめているらしい点について、我々は自問する。問題は、氏の「私見」に発するものではないと理解すると、議論の余地のあるものかもしれない。この秩序の、アブドゥルマジード氏にとっての最も危険な問題点とは、何なのだろうか?
 筆者は次のように考えている。「議会制共和主義は、民主主義の実現を助けうる統治諸形態の一つであり、幾多の例を持つ。しかしながら、それは、多数派による独裁という別の状態へ導くかもしれず、社会における自由の普及の前に門戸を閉ざす。それ故に、議会制共和主義の見地は、社会における魔法の処方箋であるかのような夢物語の類になるのだ」。この最後の表現から明らかになるのは、ワヒード・アブドゥルマジード氏が「夢物語」により意図しているのは、議会制共和主義が「民主主義実現への魔法の処方箋を提供する」という強い考えであり、それは、この秩序が--筆者の言うところでは--「議会で多数派を占める党の独裁を進めるモーターとなり得り、立法を支配し、堅固な民主主義がなければ、続いて行政を制御するようになる」からだということだ。「多数派による独裁」が大統領制秩序においてもあり得る、とみなしているにも関わらず、彼は、この大統領制秩序--そのように見えるもの--に、「多数派による独裁」を避ける契機がある、と考えている。一方、魔法の処方箋の問題については、いかなる改革についても、「魔法の処方箋」があると信じている者はそう多くなく、ほとんどの思想家は、改革というのは長い道のりなのだと理解している、とわたしは確信している。
 それ故、議会制秩序の真の問題は--アブドゥルマジード氏にとっての--「多数派による独裁」であり、これはこの文脈や他の文脈で何度となく繰り返されている表現で、民主主義思想の根本原則への説明や参照において用いられることもあるほどである。民主主義は、その働きの基本において、「多数派の統治」であり、民主主義統治の諸事が多数派の意見から遠くなる、というのは受け入れられない。これは民主主義国家すべてで起こっていることであり、議会制秩序を採用している場合でも、大統領制秩序を採用している場合でも、同様である。「多数派の統治」は、それ自体としては欠点ではなく、人民への合法的な要求である。これこそ民主主義の論理であり、エジプトにおいては、野党が法律の公布において政府の多くの政策に反対し、政府は実際に、この批判に対する返答において、これらの政策における議会での議員多数派の意見を頼りにしている。「多数派の統治」それ自体は問題ではなく、アブドゥルマジード氏がこれに反対しているとは思えない。しかしここには--だからこそ--「多数派の独裁」の危険があるが、それは「多数派の統治」とは別の問題だ。多数派が個人の権利や基本的な自由を侵害する状況を制限する点において、またこれが憲法に含まれる点において、両者は異なっている。私見では、ここにおいてのみ、多数派がその権利を統治において濫用し、「多数派の独裁」の類に成り果てることがある。
 ここに、ジョン・ローン以来発展してきたリベラル民主主義の核心がある。民主主義の核心は、権利と自由の尊重にあり、「多数派」は単なる統治のための手段としてはならず、それゆえリベラル民主主義における「多数派の統治」は絶対的なものではなく、個人および団体の権利と基本的自由の尊重により制限されている。この権利と自由は憲法が信じるものであり、多数派であっても、これへの偏見が許されることはない。この点においてのみ、我々は「多数派の独裁」について語ることができる。
 以上より、統治における多数派の支配には問題も危険もない。なぜなら、これは民主主義の論理であるからだが、この支配は、少数派を含む全員の権利と自由を保障する憲法による制限を条件とする。これには、支配の永続化を防ぐための交代と保障の蓄積が必要である。もし多数派の名の下に、権利と基本的な自由が侵害されたら、これは許容しかねることであり、議会制秩序であろうが大統領制だろうが、変わりはない。
 アブドゥルマジード氏は--「多数派による独裁」についての氏の考えを強調しながら--議会制秩序は「行政府を立法府の中にしっかりと組み込んでしまい、政府を監視することでこの役割を完全に停止させ得り、これを従順につき従うものとして、その政策と決定を繰り返すだけのものとしてしまう」。奇妙なのは、この意見は、エジプトの野党が批判しているものと、まったく同じだ、ということだ。それは、政府を批判する次のような言葉である。「エジプトにおける現行の大統領制は、立法府を行政府に従順に付き従うものとするものである。野党の訴えるところでは--そこにはいくらかの弁明があるが--エジプトにおける大統領制は、立法府を弱体化させ、これを成り立たなくさせており、「行政府に従属させ」、この「大統領制秩序」における我々の全経験を通じ、議会が大臣から信を引き出したり、法秩序の本質的な修正を行う、ということは、一度も起きていない。これを浮き彫りにするのは、昨今のすべての憲法修正が、「政府」の諮問の上に、その主導権の元に成っているということだ。革命以来のエジプトの主たる憲法は、行政府の長の手になる支配の中枢であり、立法府を「行政府に従順につき従い、その政策と決定を繰り返すだけのものとする」という、ほとんどの民主主義国家に例を見ない方法に拠っている。これはアブドゥルマジード氏の言に従うものだが、丁度反対になっている。ほとんどの憲法法学者は、イギリスにおける「議会制秩序」は、「政府」を議会委員会の一つとし、立法府の支配を行政府に従う範囲とするもので、「議会制秩序」は立法府を強化するものであっても弱体化するものではない、と考えている。
 記事の筆者は、次のように締めくくっている。「ことがこの通りであるなら、現在の我々の状況で議会制共和主義を呼びかけることは、内容においても形式においても、夢物語的思考の類であり、現況の元では、政治秩序の根本的で完全な変更と、まったく新しい憲法の公布なしには不可能である」。言い方を変えれば、アブドゥルマジード氏は「議会制秩序」への呼びかけは、その時期(訳注:憲法改正などの準備が整い、真の議会制秩序が実現される時)に先立ち、状況はそのために政治的に準備されたものではない、と考えているのだ。これが彼の意図であるなら、この筆者の考えはまったく正しいが、内容においても形式においても、その考えを夢物語とするものではない。わたしが憲法から理解しているところでは--あるいは、憲法というものから理解しているところでは--人間活動は修正に直面するものであり、変革は規定された基礎構造に合致すべく法の枠組みの中で今もって実行中であり、憲法そのものが、その修正の公布布告の父である、ということだ。この文章で意図されているのは--お世辞ではなく--ことを打ち立てる際に用いられるもので、多数派に受容され歓迎されるべく、意見と考えを提出し始めるものなのだ。ここにおいて、憲法改正にむけて採り得る道を可能にすべく、地上に権利を捜し求めるものなのだ。それゆえ、公衆の意見を築き上げるために、諸見解を取り上げることを制限してはならない。これがその時期に先立つためであり、これこそが民主主義なのだ。
 何人たりとも、力で強要され、あるいは依拠すべき法に反して、意見することを課されたくはない。しかし、意見を取り上げ真剣に議論することを許す法的枠組みの下で、テーマをもって意見を交わし続ける権利はある。エジプトにおける「議会制秩序」への呼びかけは、この枠を出るものではない。
 アッラーのみがすべてを知る。

 ことの是非以前に、こういう基本的な政治議論が新聞紙上で論じられ、新聞というメディアが、立派な政治性の発射台になっている、という点は、とてもポジティヴに見られます。
 翻訳がダメなせいでうまく伝えられていませんが、元の文章は、そこそこの長さがあるにも関わらず、平易で流暢な表現と知的で辛辣な皮肉で構成されていて、非常に読ませるものです。さんざん皮肉でこき下ろした後、「このような議論こそが議会制秩序への道にとって必要」とか「憲法改正が必要なら改正すればいいじゃない」みたいな方向に持っていくところも、なかなか巧みです。
 こうした文章の質と政治性では、日本の新聞とは比べ物にならないほどレベルが高いです。

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