ガスが出るのは目か口か

 F先生の授業。
 ほとんど怒涛のようなお喋りで過ごしてしまう。本当は教科書も進めたかったのですが、話が面白くて止まりませんでした。
 わたし自身が今後どうアラビア語と関わっていくか、どう生きていくのか、ということと、米国行きを控えた彼女がこれから生きていきていきたいのか、そういう個人的な問題から始まって、言語を学ぶということはどういうことなのか、さらに信仰の話まで膨らんでしまいました。
 彼女は、現時点までに出会ったエジプト人の中で、一番話の合う人物です。
 女性で、教養ある家庭で育ち教育を受け、外で働いている(「育ち」は日本と比べると上から下までの幅がずっと広いので、少し話すとすぐにわかる)。自身が英語をかなり熱心に勉強していて、なおかつ「ただの用具」というだけでなく「言語そのもの」への純粋な好奇心と興味を持っている。外国へ行く予定もあり、外国人の友人も多く見識も広い一方、ムスリマとして、エジプト人としてのアイデンティティを強く抱いている。自立心も強いけれど、ちょっと不安を覗かせる時もある。こういう人には、彼女を除いてエジプトでは会っていないし、日本でもそんな友人は数人しかいません。
 彼女は冷静に自国を批判することがしばしばあるのですが、ただ政府の悪口を言うだけなら、その辺のエジプト人でも皆愚痴っています。日本人だって一緒です。わたしが「すごいな」と思ったことの一つは、自分の学んだ自国の歴史に「誤り」があることをロシア人から指摘されて、公平に考えてロシア人の考えを受け入れていたことです。歴史認識というのは、思いの他深いところに刷り込まれていて、しかも当人は価値判断ではなく事実認識だと信じている場合が多いですから、揺さぶりをかけるのが難しい領域です。自覚があっても、外国人に指摘されると、つい防衛反応を返してしまう場合もあるものです。
 もちろん、美しいフスハーを操り、フスハーのできないエジプト人を嘆いているところも素晴らしいです。
 辞書にもないアーンミーヤの単語の説明を考えあぐねて、とりあえずGoogle様に尋ねているところを見て「この人はエジプト人だけど同じ文化で生きている人だ!」と確信しました(笑)。
 プライベートなことは一応伏せておきますが、「外国語を学ぶ者同士」という点で「あるあるそれ!」と声を合わせてしまったのが面白かったです。
 一つが、「知的な話題は話せるのに、身近なことを意外と言えない」。これは、外国語を学んだ人なら誰でも思い当たるでしょうが、たとえば台所周りの細かいものの名前とか、結構言えないものです。そんな子供でも知っているようなことがポロッと抜けているのが「外国人」というものです。
 彼女とはほとんど英語で話したことがないですが、五歳から英語教育を受けていて、かなりの達人であることは間違いないです。そんな彼女が「アラビア語(アーンミーヤ)では、ガスに火を付けるのをولعって言うけれど、そう言えば英語で何て言うのか自信ない」「流しの下の下水管から水がポタポタ落ちる感じはنقطةだけど、英語で言えない」「ガスコンロの口عين البوتاجازはどう言うの?」等々、二人で大笑いしてしまいました。
 ちなみに、ガスコンロの口(火が出ていてその上に薬缶などを載せる部分)を、アーンミーヤでは「ガスの目」と「目」という単語(泉という意味もある)を使って表しますが、日本語では「口」です。
 ああいう「穴がポコッと開いていてそこから何か出てくる感じ」系のものは、日本語では「口」で表象される場合が多いですが、アラビア語だと「目」が多いです。このことを彼女に話したら、非常に面白がってくれて、こういう関心の持ち方も共有しています。
 何かが「出てくる」のだから、「口」は変な気もしますが、口は「入る」ところにも関わらず、魂が口から抜けて出て行くようなイメージもあります。
 また、「出る場所じゃない」というなら「目」だって出る場所ではないのですが、アラブ世界には邪視の思想が強く、目からは何かが放射されているイメージがあります。そもそもعينに目と泉の二つの意味があることからして、目は何か沸いてくるものらしいです。
 どちらの「出るイメージ」も洋の東西を問わず存在するのですが、日本(多分東アジア全般)では口優勢で、アラブ(多分西洋も)では目優勢のように感じられます(<要出展)。
 それにしても、二人とも将来については先が見えず、わたしにしても、とりあえず一度は帰国しますが、それからどうするのかサッパリです。
 図書館で、また日本語を勉強している女の子と少し話す。
 日本語になった時は、注意して易しく丁寧な言葉でゆっくり喋るのですが、これが結構骨の折れるものです。わたしもいつもこういう苦労をかけているのだな、と思い知ります(苦労してくれないエジプト人の方が多いですが・・・)。
 「排気量の違うバイクで一緒にツーリングに行くと、疲れるのは大きいバイクに乗っている方」の法則です(マニアックな喩え)。
 以前にも書きましたが「外国人にわかりやすく話す」というのは、技量の要るものです。英語ではこのための訓練があるのですが、日本語についても、少しで良いから教育の中に組み込んで貰えたら、長い目で見たら日本語学習者の気持ちを上向きにし、日本のイメージおよび国力を微力ながら上げることができるのではないか、と思います。
 彼女が「Eメールを出します」と言った時、わたしが「Eメールを送ってくれるのですか」と言い換えて返したら、「Eメールは『出す』ではないですか。『送る』ですか」と質問されたのが興味深かったです。「どっちでもいいです」と答えておきました(つまらん回答!)。
 また「三角形」という漢字の読み方を尋ねられたのですが、答えを口で言うと、彼女がひらがなで「さんかっけい」と書きます。それを「さんかくけい」と訂正しながら、ふと「いやいやいや、発音はどう考えても『さんかっけい』やんね。でも、ひらがなで書くなら『さんかくけい』が正しいはず」と気づき、非常にワクワクしました。とりあえず書記と発音の遊離として説明しておきましたが、どういう説明が一番ストンと落ちるのでしょう。日本語をもっと勉強しないといけません。
 それにしても、彼女たちが丁寧な日本語で喋っていると、とても暖かく幸せな気持ちになります。優しく丁寧な日本語は、本当に美しくてほっぺたがホニャラ~ととろけそうになります。彼女たちの先生(多分日本人!)に感謝します。
 メトロの中で、アバーヤの後ろの裾がジーンズにひっかかっているのを、指摘してもらう。
 お手洗いに行った時にでもひっかけたらしいです。メトロの床に穴掘って入りたかったです・・。
 スカートじゃなくて良かった・・・って、それ前に一度やったことありますけどね、しかも彼氏の前で。もう失うものなんて何もないですよ、あっはっはっ(泣)。
 前に座っていた女の子が「心配ないって!」と大笑いしながら言ってくれて、そこから「ところで昨日のアルジェリア、どう思うよ??」とか会話になりました。
 わたしが新聞を読んでいると、下から反対側の記事を読んでいて、わたしの新聞を押さえて読みやすいようにしたりします。
 こういう「他人が近い」感じはエジプトのデフォルトですが、非常に気楽で安心します。まぁ、時々鬱陶しいのも事実ですが・・・。
 勉強の後、予定している旅行のために切符を買いにラムスィースへ。
 例によって、長蛇の列に並んだ挙句、順番が来たら「あっちの窓口だ」とたらい回しにされます。「隣の部屋の七番窓口だ」とか言われて行くと、番号なんてどこにも書いていなかったりします(笑)。
 並んでいる人に尋ねても「あっちが当日、こっちが予約」「いや、全部一緒だ」とか、みんな言うことバラバラです。その横で老婆が「一枚くらいいいじゃない、どうしても今日乗らないといけないの、一枚切符頂戴!」とか泣き叫んだりしていますが、いつもの光景なので全スルー。自分とアッラーだけ信じて淡々と駒を進めます。
 四回目くらいに並んだ窓口で「予約はない、当日だけだ」とか言っているので、周りの人に「当日しか買えないなんてある??」と聞いたら「予約はできる」と言います。
 居合わせた女性が助けを差し伸べてくれて、窓口と交渉してくれたのですが、イード・ル=アドハー前のせいで、満席との答え。
 ところがその直後、別の通らしい男(謎)が、「今日はまだ早すぎる、土曜日の朝にもう一度来い」と言います。女性も信じているし、どの道切符は買えなさそうだったので、今日は諦めて出直すことにしました。
 土曜日に来ても買えない予感がアリアリですが・・・バスにしようかなぁ・・・。
DSCN4277
コシュク posted by (C)ほじょこ

タイトルとURLをコピーしました