「エジプト語」と人民のフスハー

 「アーンミーヤ(エジプト方言)に正書法を与えて『国語化』しようとする人々はいないのか。いるとしたら、どのような人々なのか」「誰にとってアーンミーヤが都合よく、誰にとってフスハーが好都合なのか」。
 この非常にエキサイティングな問題について、ある程度の知識も答えも持ってはいたのですが、F女史と正面切って話す機会に恵まれました。
 多分に政治的・宗教的な話題なので、ある程度関係ができないと、おいそれと話題にできません。もちろん、無教養な人に聞いても議論になりません。エジプト女性のすべてが話しやすいとは全く思わないのですが、F女史は若い世代のエジプト女子で、かつ知性と教養に恵まれ、敬虔なムスリムであると同時にフェミについての知識も持ち合わせるという、性格やものの考え方的に非常にノリのあう貴重な話し相手。この話題には最適でした。
 アーンミーヤに正書法を与え、国語化することで得するのは誰なのか。もちろん、宗教寄りではない知識人で、政府寄りの人間です。
 これに一番反対するのは、これまた当然、宗教色の非常に強い人々。
 ここまでは言うまでもないことですが、重要なのは、大衆のほとんどが「フスハーはますます弱くなっていくだろう」と漠然と感じていて、尚且つ「フスハー=信仰の言葉」というイメージを抱いていること。
 もちろん、フスハーはイスラーム専用の言語ではありません。アラブ民族主義華やかなりし頃に、「アラビア語を話す者としてのアラブ人」というアイデンティティ形成に大きな役割を果たしたのは、キリスト教徒たちでした。
 ですが、アラブ民族主義のすっかり忘れ去られた現代にあっては、大衆の不満をすくい上げるのはイスラーム復興・イスラーム主義の思想であり、ろくにフスハーを喋れない人々ですら「フスハー=信仰の言葉」という固定的なイメージを抱いています。
 政府や政府よりの知識人は、もちろん「フスハー=信仰の言葉」などではないことはわかっていますが、同時に大衆にそういう固定観念があることも知っています。ですから、フスハーがあまり力を持ってしまうことは、嬉しくないわけです。
 ここで非常に面白いのは、一見すると、富裕な知識人の方がフスハーの肩を持ちそうなのに、実際は、いかにもフスハー教育の行き届いていなさそうな大衆や貧困層の方が、フスハーを大切にしている、という捩れ現象です。
 新聞や雑誌でもっとアーンミーヤ記法が使われれば、教育のない人々でも情報アクセスが容易になるように見えますが、大衆の支持を集めているのはムスリム同胞団などの宗教寄りの勢力であり、この人々にとってはフスハーこそが「第一の言語」なのです。
 フスハーというと、「公式の言葉」「知識人しかキチンと喋れない」というイメージがありますが(実際、正確に流暢に話せる人は教養人だけ)、その存在意義と価値については、むしろ教養なき大衆にこそ支持されているのです。
 「フスハーの喋れない人までが、フスハーを愛する」空気には、こうした政治的背景もあるわけです。
 教養の求められる言語が、教養のない人々に求められ、反政府的思想が伝統への回帰を主張する、というのは、捩れに見えますが、もっとよく考えると捩れでもないことがわかります。
 権力にとって都合の良い大衆とは何でしょうか。
 「眠っている」大衆です。
 権力は常に、大衆には何も考えていて欲しくないのです。エジプトに限った話ではありません。日本の方が、より深刻に支配が浸透していて、大衆は娯楽と現世的な夢に溺れ、文盲と白痴ばかりが溢れているではありませんか。その辺のおっちゃんでも一家言持ち、一語学教師の女性が政治と信仰を語れるエジプトの方が、遥かに政治意識・知的水準が高いです。
 エジプトの大衆は、日本人ほどぐっすり眠ってはいません。
 一応いくつかフォローしておくと、フスハー/アーンミーヤという弁別は、日本で考えられているほど絶対的なものではありません(こんなことに興味を持っている日本人が既にかなり少数派ですが・・)。
 最初に耳で聞いた時は「これが同じアラビア語か!?」と驚いたほど違うエジプト方言ですが、勉強すればするほど「一つの言語の別の局面」というアラブ人のとらえ方が、自然に見えてきます。
 「どこから先がフスハーで、どこからアーンミーヤか」というのも、人によって言うことが違います。また、会話の中で両方の構文や表現が入り混じることもあります。テレビの討論番組などに登場する知識人は、基本の文法はフスハーで喋っていますが、単語レベルの発音はエジプト方言です。
 また、「アーンミーヤ記法が用いられれば、情報アクセスが容易になるのではないか」というのも、一面的です。
 まず第一に、本当に教育のない人は、そもそも字が読めません。字が読めなかったら、記法もへったくれもありませんから、アーンミーヤの正書法なんか出来ても、何の足しにもなりません。
 第二に、文字にしてしまうと、アーンミーヤとフスハーの距離というのは、驚くほど小さいものです。
 アラビア語がある程度分かる人なら、新聞などを流し読みしている時、正確な発音、特にイウラーブがわかっていなくても、大体の意味が取れる、ということをご存知だと思います。日本語で、漢字の読みを正確に知らなくても何となく意味がわかるのに似ています。
 これはエジプト人にとっても同じで、新聞だから誰でも読んでいるわけですが、ではこの読者達に正確なイウラーブで発音してみろ、と言ったら、かなりの確率で間違えるはずです。
 つまり、新聞を読む程度のレベルであれば、それほど高いレベルでのフスハー理解がなくても、何とか読めてしまうのです。
 第三に、「正書法がない」と言っても、「大抵はこう書く」というパターンはそれなりに共有されています。新聞の一部でアーンミーヤが記述されていたら、外国人でも大体のところは読むことができます。
 要するに、「読み」という面についてだけ言えば、アーンミーヤの正書法が確立されることによるメリットというのは、外人の考えるほど大きくないわけです。
 「捩れ」と言えば、もう一つ面白い現象があります。
 衛星テレビの子供向け番組でフスハーが使われている影響で、若い世代の方がむしろフスハーが上手なのです。
 実際、四十少し前くらいのうちの大家さんのフスハーは酷いものですが、その十二歳の娘のフスハーは大変美しいです。
 フスハーが「古い」言語で、アーンミーヤが「新しい」言語、というとらえ方は、一面的に過ぎます。
 もちろん、発生論的にはフスハーが古いわけですが、そのフスハーもクルアーンの時代から変わっていないわけでは全然なく、現代フスハーがまとめられたのは、せいぜいこの二百年くらいのスパンの話でしょう。
 イスラーム復興となれば、これだけ盛り上がったのは三十年くらいの話で、「若い世代ほど信仰熱心」という、日本における伝統や宗教に対するイメージとは反対の状況があります。
 話の流れで、F女史の個人的な話題にもなりました。
 「この仕事を始めてから、フスハーも英語もずっと上達した。普段の生活の中で、フスハーを使うのは学校の中しかない。わたしの父は大切なことを話す時にはフスハーを使うけれど、やっぱりそれは特別な時で、普段はアーンミーヤしか使わないし、アーンミーヤで話したい。でも、教えていく中で、前よりずっとフスハーが理解でき、好きになった。一人のムスリマとしても、フスハーを理解することは必要なことだ。給料は安いけれど(笑)、この仕事を通じてアラビア語がずっと好きになれた」。
 日本人日本語教師の方も、似たような経験をされているのではないでしょうか。
 フスハーが知識人のもので、大衆の言語はアーンミーヤ、というのは、一面的なものの見方にすぎません。
 確かに大衆はアーンミーヤで生活している、というか、知識人だって普段はアーンミーヤで暮らしているわけですが、フスハーは別段「気取った言語」ではなく、それ以上の政治的意味を帯びています。
 言語は常に政治的なものです。一見「高級」で超絶難解なフスハーが、大衆的イスラーム復興とリンケージしている、というのは、非常にエキサイティングです。
 「古く深い知」へのアクセス経路が身近に残されていて、しかも教養なき大衆すらもが、その意義を多少なりとも理解している、という現況は、痴呆化の進む一方の日本の状況より、遥かに恵まれていると言えます。日本の大衆と言えば、麻薬のような娯楽と現世的些事に釣られて、権力の元で眠りを貪るばかりです。
ガーマ
ガーマ posted by (C)ほじょこ

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