最近の出来事をメモ。
帰宅途中、メトロの階段の下で、大きなスーツケースを持った女性に会う。
一人で階段の下に取り残されて、わたしと目が合うと、子供が甘えるようにニヘラッと笑います。「しょーがねーなー」な感じで、手伝って一緒に運んであげました。「めっちゃ重い~」「家近くなの?」とか会話できて、楽しかったです。
常に人助けのチャンスを狙っているようなエジプト人が、なぜ彼女を放置していたのか不思議ですが、考えてみると、若い女性が相手の場合、男性は気軽に手助けできないのかもしれません。一方で、女性は普通に「あんな重いものイヤ」とスルーするのかもしれないし、外人女のわたしは丁度良い相手だったのかもしれません。
こういう「ちょっとしたお手伝い」ができた時や、施しを与えた時にいつも感じますが、「助ける」喜びというのは、単に相手のためでも、純粋な自己満足でもなく、「社会に受け入れて貰えた」感覚に由来するのでは、と思います。
乞食について書いた時、「それでも働こうという人が現れるのは何故なのか」というコメントを頂戴しましたが、極論を言えば、人は「施しを与えるために働く」のでは、と考えています。
人間は、お手伝いしたくてたまらないのです。
お手伝いすると、世の中に受け入れて貰えたような気持ちになれるからです。
別に頭を下げて感謝されるから、とかではありません。何も貰えず、当たり前に流されても、助けることができただけで、十分「承認欲求」が満たされるのです。
子供の時、お母さんのお手伝いをした時のことを思い出して下さい。何も貰えなくても、大人になったみたいですごく嬉しかったじゃないですか。堂々とした気持ちになれたじゃないですか。大人になったって、そういう根底のところは、人間変わらないはずです。
社会人になって、親戚のちびっこにお年玉あげる悦びと一緒です。
もちろん、今のわたしはただの外人で、エジプト社会にとっては単なるお客さんですが、それでもちょっとした手助けをしたり、道を教えたりすると、すごく満たされた気持ちになります。
自己満足と言われればそれまでですが、この承認感を得るためなら、頑張って働いて、貯めたお金で「お助け」チャンスを狙う、というのも理解できます。
イスラームは、明示的な施しや人助けのシステムを作り上げることで、こうした感情をうまく汲み上げ活用していますが、別にイスラームでなくても、こういう充実感は万国共通なのではないかと思います。
日本だって、一昔前までこういう任侠的気風があったんじゃないですかね。やっぱり任侠ですよ任侠。日本も右派革命しかないですね。
日本で職もなく鬱憤の溜まった若者は、街に出て無差別に老人を助けると良いと思います。
大きな階段で待っていれば、そのうち年寄りの一人や二人通るでしょう。「荷物持ちます!」と言ったら、最初は訝しがられるでしょうし、拒否されることが大半だと思います。でも辛抱強くやれば、そのうち助けさせてくれる人が現れるはずです。
五体満足なら、荷物くらい誰でも持てます。少なくとも、戦争に行ける若者なら、荷物くらい持てますし、戦争なんか待ってるくらいなら、こっちから荷物を運んだりおばあちゃん本体を運んだりする方が、ずっと手っ取り早くて簡単です。
「手なんか貸すと、かえって迷惑なんじゃないか」などと考えるべきではありません。むしろ迷惑かけて良いと思います。神様とわたしの問題ですから、助けられる人が本当は迷惑に思っていても、全然関係ありません。エジプト人も迷惑なくらい助けてくれます(笑)。
そして毎日毎日食べるものも食べずに、手助けしまくって、そのまま死ねばいいじゃないですか。
靖国に奉ってもらえるかはわかりませんが、きっと天国に行けると思います。そして、死ぬ間際には必ず幸せな気持ちになっているはずです。
運がよければ、子供のいないお金持ちのお年寄りに気に入って貰えるかもしれません(笑)。
無差別テロ的人助けは、必ず本人の承認欲求を満たします。爆弾投げる前に年寄り運べ。爆弾を投げるのはそれからでも遅くないです。年寄りは投げちゃダメ。
ちなみに、システム的にボランティアか何かの活動に参加すると、きっとそこにはボランティア同士の村社会とかがあって超ウザいので、独立機動的に攻めた方が吉でしょう。
おまわりさんが来るかもしれませんが、国家権力が怖くて人助けができるか!の精神でいきましょう。
所用で大家さんがやって来る。
「ヨルダン人の女の子が二人家を探しているのだけれど、一緒に住めないか」と言われ「いやです」と即答しました。全然任侠じゃないです。すいません。
大家さんと言えば、こないだ電話で「アナ・ミスファトマ」と言っていて、色々な意味で間違っているのがホノボノしました。大体、いつからミスになったんや、あんた。そこの娘は拾いっ子かいな。
大家さんの娘が「日本人と中国人の見分け方がわかる」というので「何?」と聞いたら、「中国人は超デブがいるけど、日本人にはいない」とのことでした。
日本人でもいないわけではないと思うのですが、確かに異様にツブが揃っていてスリムですよね。最初はエジプト人のデブ率の方が目についていたのですが、考えてみると、日本の方が異常なのかもしれません。
太ってても、肌の色が違っても、言葉が喋れなくても、そんなことどうでもいいやん。
ちなみに、娘は最近アーンミーヤだけで普通に喋ってくれるのですが、大家さんは相変わらず変なフスハーの「ファトマ語」に固執していて、まどろっこしくて仕方ありません。
新聞で、カイロのバス内の風景をリポートした記事を見かける。
カイロのバスは、時間帯によっては殺人的に混んでいて、バスから人が溢れる勢いです。バスというより、虫が動物にしがみついて移動しているみたいです(この描写を前にF先生に話したら大爆笑してもらえた)。しかも、この超混雑したバスの中に、変な小物を売る売り子がいたりするから、すごい風景です。色鉛筆なんか買うてる場合か。
記事には、混雑や痴漢の問題と併せて、バス内で交わされる豚インフルエンザについての議論が掲載されていました。「豚インフルエンザは神罰に違いない」「いや、そもそも豚インフルエンザなど存在しない。政府の陰謀だ」というもので、「アンタら極端しかないんかっ」とツッコみたくなります。
でも実際、こういう議論は街の至るところで耳にし、市民が激論を交わしている風景は珍しくありません。この手の会話を聞き取るのは、非常に難しいのですが、気合で集中して耳ダンボになると、かなり面白いです。エジプト人は、どんな普通のおっちゃんでも一家言持っているようです。
論の内容はともかく、こういうことがパブリックな場で議論されていること自体は、すごく良いことだと思います。不満や疑問があったら、その場で口にしてちゃんと言い争う。顔だけニコニコして後でネットに悪口書いたりしない。素晴らしい。
メトロの女性専用車両に男性がうっかり乗りそうになった時も、特に混んでいる時間帯だと、車内から一斉に「女性専用や! 降りろ!」と声があがって、男の人が可哀想になるくらいです(笑)。
F先生の授業中、エジプトの懲役制が話題になり、そこから大幅に脱線して語り捲ってしまう。
エジプトは徴兵制で、将校は三年、兵卒は一年の義務があるそうです。彼女の弟さんが丁度今軍役の最中で、たまの休日に帰ってくると、元は少し太り気味だったのがすっかりスリムになり、真っ黒に日焼けし、軍隊生活の過酷さをこぼしている、と言います。日本の自衛隊だって大変でしょうが、エジプトの軍隊は食べるものもロクに与えられず、炎天下(日本の炎天下の比ではない)で延々立たされたり、怪我をしても医者にかかれなかったり、腐ったような水を使わなければならなかったり、刑務所なみのようです。
ですが、個人的には、わたしは徴兵制を支持しています。
軍隊なんか誰だって行きたくないですが、その最悪な軍隊がなぜ必要なのか、あるいは本当に必要なのか、全国民が直接対峙すべきだと考えているからです。貧乏人が他に職がなくて入る軍隊なんて、真の「防衛軍」ではありません。軍の仕事は、普通の仕事とは違います。世界中どこでも、人を殺すことが正しい行いのわけはないし、それをどうしてもしなければならないのだとしたら、そこには止むに止まれぬ義がなくてはいけません。貧しい人間が「職の一つとして」入るような軍隊であってはなりません。軍を維持するなら、断固徴兵制を採るべきだと信じています。
話の流れの中で、ジョシュア・キーの『イラク―米軍脱走兵、真実の告発』(原著The Deserter’s Tale: The Story of an Ordinary Soldier Who Walked Away from the War in Iraq)に触れました。貧しい家に生まれ、家族を養うために軍隊に入り、米国の大義を信じてイラクに派兵されたものの、そこで目にした矛盾と不正義に耐え切れず、脱走兵となった人の本です。翻訳を読んで、わたしは泣きました。
「イラクの人々が最大の犠牲者なのは言うまでもないが、アメリカの末端の兵士、貧しさから軍隊に入らざるを得なかった人々も、同じく犠牲者だ。金持ちが軍役を逃れ、軍隊がただの仕事に成り下がっているから、こういうことが起こる。軍隊が本当に必要で、やむをえない戦いだけしているなら、なぜこんな馬鹿げたことが起こるのか。軍を維持するなら、徴兵制を採るべきだ。エジプトの軍隊には改善の余地があるだろうが、徴兵制自体は正しい」。
ジョシュア・キーの本の中には、彼が上官につっかかり、「テロリストを焙り出す家宅捜索と言いながら、来る日も来る日も何も出てこない。テロリストというのは、我々のことなんじゃないのか」「なぜこんなことをしなければならないんだ?」と言う場面がありますが、上官の答えは「お前が書類にサインしたからだ」というものでした。
彼はイラク人の抵抗に共感を示し、こんな風に語ります。「もし僕の故郷の町に、どこだか知らないが外国の軍隊が攻めてきたら、持てる知恵と力の限りを尽くし、命の限り戦うだろう。塹壕を掘り、爆弾をしかけ、ありとあらゆる方法を使って、必ず軍隊を追い出してやる」。
現実には、今の軍隊は本当に「仕事」であって、大人の事情で戦争しているだけなのでしょう。アメリカの議員には徴兵制を主張する人もいますが、圧倒的に少数派で、日本はもちろん、アメリカが再び徴兵制を採ることもあり得ないでしょう。
結構。そっちが大人の事情なら、子供の事情でお前達を皆殺しにしてやるだけだ。穴を掘り地を這い泥水を飲み、知恵と力の限りを尽くし、子供の事情で戦って死ねばいい。どっちが本物の「軍隊」か、アッラーだけが知ればいい。

戦争博物館の戦車 posted by (C)ほじょこ
無差別同時多発お手伝い、豚インフルエンザ陰謀説、徴兵制
エジプト留学日記