訳あってモガンマアを再訪問。最初にモガンマアでビザを延長した時のことも書きましたが、二回目のせいかトラブルもなく進みます。
ところが、遅い時間に行ったせいか、最初は「午後3時にできる」と言っていたのが、「土曜日だ」とか言い出します。パスポートは手元にあるので良いですが、50ポンド払って土曜日に何も手にできなかったら、間抜けすぎます。この国で解決が翌日以降に持ち越すと、必ずスムーズにいかないので、嫌な予感で一杯、というか、現時点で既に何も期待しないモードに入っています。期待したら負けです(笑)。
S先生の授業で、面白い話題が二件。
日本人とエジプト人の結婚について。
「もし彼氏がいなかったらエジプト人と結婚してもいいか」と聞かれ「国籍は別にどこでもいい。ただ現実的には、色々問題があって難しいだろう」と答えました。先生は「わたしもそう思う。結婚しない方がいい」と言います。
街のナンパエジプト人は、脳の八割は口説き文句に使っているんじゃないか、というくらいあの手この手の甘い言葉で迫ってきて、「国籍も言語も問題じゃないよ! 愛があれば何でもオッケー!」くらいのノリですが、ある程度日本人を知っている誠意あるエジプト人は、必ず「エジプト人と結婚するな、絶対合わないから」と言います。
もちろん、結婚なんて最後は個人の気合の問題だし、日本人同士でも失敗する時は失敗するのですから、多大な困難を覚悟の上で結婚するなら、むしろ応援したいです。ただ、エジプトのことを知れば知るほど、「こりゃお客さんでいるうちが花やわ」とヒシヒシ感じます。
とにかく習慣上違うところが多すぎるし、ビジネスや勉強ならともかく、結婚となると日本との最大の違いと言ってもいい「家族」の問題になります。本人二人は何とかなっても、お互いの家族が仲良くするのは至難の業でしょう。当の奥さんにしても、日本で余程人付き合いが良く、大家族的環境で暮らしてきた人でないと、到底耐えられないと思います。「一人の時間も大切にしたい」とかいう気持ちが一ミリでもあったら、絶対エジプト人とは結婚すべきではないです。
でも、実際にはエジプト人と結婚している日本人女性は沢山いるし(逆はほとんどいない)、うまく行っているカップルも多いと思います。そういう人は「すごいな」と素朴に尊敬するし、幸せな家庭を築いて欲しい、と願っています。
当たり前ですが、旅行で来てエジプト人の熱いラブコールにクラリとやられてそのまま結婚、とかは論外です。そんなのはエジプトに限らず論外ですが・・。
先生が東洋の宗教について話題にした時、ブーザ(仏陀のこと)やら何やら早口で名前を列挙して、その中にشنطوシャントゥーという言葉がありました。
スペルについては確認していないのですが、まず間違いないと思います。これはもちろん、「神道」のことで、シントーがشنطوと表記されているのを、シャントーと読んでそのまま覚えてしまったのでしょう。
アラビア語は短母音を原則表記しないので、こういう「母音の取り違え」が起こらないのかと、アラビア語初心者は必ず考えると思うのですが(わたしは考えました)、実際には、アラビア語の単語については、母音表記なしで困ることはまずありません。母音は統語論的に決定される要素が大きいし、残りの「どうとでもなる」部分も、ある程度「ありがち」なパターンというのが決まっているので、大抵は直観的に分かります(ただ、アーンミーヤだとノリが違って間違えることが多い)。
ただし、アラビア語本来の単語ではない、外来語の場合は事情が違います。「外来語は短母音を長母音のように表記して、発音上は短く読む」と日本で勉強したのですが、実際の表記を見ると、かなりテキトーです。日本語のカタカナ英語も酷いですが、「アラブ英語」「アラブ日本語」も外国人にはなかなか厳しいです。一目で外来語と分かるスペルなら良いのですが、最初にنت(ネットのこと)という単語を見た時は「なんじゃこりゃ、ターハーみたいな神秘文字??」と考え込んでしまいました(笑)。انترنت(インターネット)とかも、一瞬アラビア語にありそうで、初めて見た時は「第8形でジズルがنرن??? 何その語根」とかハマりました。
شنطوという綴りも、とても素直なアラビア文字への落とし方ではありますが、タシュキールがなければ、アラブ人なら八割くらいの確率で「シャントゥー」と読むでしょう。「読もうと思えば読める」というなら、果てしない可能性がありますが、現実的には「シャントゥー」「シントゥー」くらいがせいぜいだと思います。「シントゥー」も十分あり得るところが罠で、書いた人は「これでわかるだろう」と思っていたのかもしれませんが、もっと高い可能性が上に一つあった、ということだと思います。例えば「カマクラ」をكمكرとか書いても絶対正しく読んでもらえないから、こんな書き方はしません。شينطوくらいの綴りなら別にしつこくないし、わたしならこう書きますけれど。
そう言ってふと気づきましたが、كاماكوراはしつこいので避けたい時に、كماكرةくらいに書くと、意外と近く発音してくれるかもしれませんね。なぜか女性名詞になっていますね。何でしょう、これ。
この時に、ムハンマド・タラアト選手のイスラエルTシャツ疑惑の話をして、そこからイスラエルの話題になったのですが、S先生が「敵」という言葉を使う時の凄みはなかなかです。彼は自分で「独裁的」と言うくらいボス然としたエジプト人で、微笑んでいる時は優しそうですが、何かで怒りを表す時には、鬼のような形相になります。
彼が「敵」という言葉を使う時には、「敵に対してなら何をしてもいい」「敵なのだから、殺すことが正義だ」とでも言うような圧力があります。実際に尋ねたら「いや、敵だからといって何でも許されるわけではない」と答えるでしょうが、戦うとなれば手段は選ばない、というオーラが全身から放たれています。
多分、多くのアラブ人に、こういう「友-敵」の明瞭な弁別と、割り切りというには強烈すぎる、切り分けのようなものがあるのではないでしょうか。「敵」とまで言われたことは幸いありませんが、ボッタクリターゲットにする時の強欲極まりないエジプト人と、一旦友達になった時の尽きることない親切を見ていると、「これが敵になったら、とどまるところがないだろう」と容易に想像できます。
でもこういう「敵」への割り切りというのは、必要な場面では必要なのではないでしょうか。日本人だって、ほんの六十年前には戦争していたのです。「敵」は作らないに越したことはありませんが、一旦「敵」と認識したら、殺すのを躊躇う方が罪です。
もちろん、闇雲に「仮想敵」を作り出してヒステリックになるのは愚かしいことで、むしろ「友-敵」の弁別から遠ざかっているように思います。本当に友と敵を峻別し、手段を選ばず叩き潰さなければならない状況なら、軽々しく「敵」などと言えないはずです。
一番難しいのは、敵とも友ともつかない人たちと関わりながら、うまく距離を操作して、必要な時には瞬時に引き金を引けることでしょう。普通に人と人が出会った時、最初の段階では友とも敵とも判別つきません。この曖昧な領域でうまく立ち回るためにも、敵に対して躊躇しない強さが欲しいです。どこかの国のチープな排外主義みたいに最初から喚いていては、倒せる敵も倒せないし、友達にもなれません。
そういう勘を鍛えるためにも、縮こまらずに絶え間なくガンガン人と話まくり、時に友となり、時に敵となっていきたいです。
モガンマア再び、エジプト人と日本人の結婚、謎の宗教「シャントゥー」、友と敵
エジプト留学日記