今日、仕事の面接に行くためメトロに乗っていると、物売りの少年がクルアーンの章句をプリントしたような紙を乗客の膝の上に配りだしました。
よくある光景で、メトロやバスの中で、物売り(大抵子供)が、変なキャラクターシールとか安全ピンとか、およそ要りようとは思えないものを、片っ端から乗客の膝に置いていきます。要らなければ、そのまま何もしなければ回収に来ます。欲しければ回収時にお金を出せば良いのですが、ほとんど売れません。
今日は前の座席に座っていた優しそうなおばちゃんが、珍しくお金を払って「紙」を買っていました。少年が行った後、向かいの席の女性に「いる?」と尋ねています。向かいの女性も苦笑いして「いらない」と答えています。もちろん、おばちゃんはこんな「紙」が欲しかったわけではなく、少年が気の毒でお金を払ってあげたのです。
カイロ市内には、所謂「乞食」が沢山います。
道に座って窮状を訴え哀れみを乞うスタンダードな「乞食」もいますが、ひたすらまとわりついて「マネーマネー」とせがむストリートチルドレンもいます。また、道端で哀れみを乞う悲痛な言葉を語りながらティッシュなどを売っている女性も多く、これらは純粋な「乞食」ではありませんが、ティッシュなんてどこのコシュク(売店)でも売っているわけで、準「乞食」的存在と言って良いでしょう。車内の物売り少年も準「乞食」的です。
わたしたちは普通、物やサービス・労働力を提供して対価を得ることと、「乞食」の間にクッキリと線を引き、まったく別種のことだと考えています。何も生産しないでお金だけもらおう、という「乞食」を、卑しい存在だと思う人もいるでしょう。実際、ストリートチルドレンの中には、かなりしつこくて厄介な子もいて、あしらうのに苦労します。
でも、今日、物売りの少年からどう見ても必要のないものを買っているおばちゃんを見て、突然ゲシュタルトが歪むような感覚を覚え、「わたしたちは皆、実は乞食なのではないのか」という考えが浮かびました。
わたしたちは、生産物を売って対価を得ることは「正当」であると考えます。なぜなら、生産物には対価に値する「価値」があるからです(だから「対価」という)。
しかし、ものの値段というのは、絶対的に決まっているものではありません。エジプトでは定価という概念が通用しませんが、そもそも値段というのは売り手と買い手の出会いと探りあいの中で決まるもので、「相場」はあっても「定価」、すなわち「売買に先立つ価値」というものは、ファンタジーにすぎません。
売買の前には価値も価格もなく、後に「相場」が残ります。物自体の価値とか「定価」的思想というのは、売買の後で遡及的に想定・投影されたものです。
だから、売買が「正当」であることを「正しい価格で売っているから」と基礎付けるのは順序が逆であって、なぜ「正当」であるかと言えば、それを正当だと思って買った人がいるからです。つまり「正当だから正当」というだけの話で、本当に存在するのは、売り手と買い手の一発勝負だけです。
ものそのものに先験的な価値がない以上、わたしたちは皆、物売りの少年のように他人の膝にものを乗せて、運良く買ってくれる人を待っているだけです。場合によっては、形になるものは何も与えないで、言葉だけで(「哀れみを訴える」)報酬を得ます。
では結局「お客様は神様」というだけなのでしょうか。
物乞いがこれだけ成立するのは、貧者に施しを与えることが徳を積むことになる、というイスラーム的思想が背景にあるからです。
しかし、イスラームと限定しなくても、わたしたちが財を与えることができるのは、どこかで財を得たから、つまり乞食的に運良く買い手に出会えたからで、かつその前に売れるものを得ることができたからです。
日本は「生産」でのし上がってきた国なので、物というのは「作る」というイメージが強いですが、何を作るにも原料が要り、元をたどれば全部自然の恵みです。農業だったら、手間はもちろんかかりますが、極端な話、種をまいてじっと待って、できあがったものを食べたり売ったりしているわけです。途中でかかる手間暇というのはもちろん重要ですが、そこだけ見ていては根本にある「自然=外部からの圧倒的な贈与」という面が見えません。
イスラームが施しを強調するのは、単に「貧しい人を助けましょう」という道徳を訴えているだけでなく、財などというものは、所詮は全部アッラーが恵んでくださったものなのだ、ということを思い出させようとしているからでしょう。
わたしたちは、買い手の前で乞食ですが、それ以上に、アッラーに対して乞食です。
アッラーと言われて抵抗があるなら、大自然に対して乞食でもいいです。
とにかく、「お恵み」をもらって生きていることでは変わりありません。
こんなことは当たり前のことかもしれませんが、今日ハッとした気分になったのは、多分、少年が純粋な乞食ではなく、明らかに必要のないものを「売って」いたからでしょう。彼の存在が、わたしたちが「正当」と考えているスタンダードな売買と、スタンダードな乞食の媒介項になって、「実は同じことなんじゃないか」という閃きにつながったのだと思います。
イスラーム圏で乞食が妙に堂々としているのはよく知られていますが、彼らが堂々とできるのは、逆説的にも彼らが「正当」だからです。この「正当」は、普通の売買における「正当」と連続しています。両者が隔絶していると思うから、乞食の厚顔ぶりが釈然としないのであって、わたしたちも乞食と同じくらいお恵みと情けにすがっているのだ、ということに気づくと、狭義の乞食にも、わたしたちと同じ程度には「正当」性があるのがストンと落ちてきます。
乞食が感謝するのは施しを与えた人ではなくアッラーです。なぜなら、富める者の財も貧者の財も、結局すべてアッラーが与えたものだからです。
乞食の「正当」と売買の「正当」、乞食の生きる権利とわたしたちの生きる権利、こうしたものが、圧倒的な外部としてのアッラーという一点を媒介して、連続しています(日本的に言えば「自然」とか「世間」になるのかもしれません)。
少年は変な紙切れを与えてお金を貰っていましたが、わたしは何も与えないで、閃きを貰いました。わたしの方が乞食です。
アッラーに感謝します。
なお、イスラーム世界の「乞食」については、保坂修司さんの『乞食とイスラーム』という本が非常に面白いです。また、「命がけの飛躍」云々というのは、柄谷行人さんがさんざん書いていたお話です。アラブ世界では、氏が強調していた商業と資本の本質が非常にわかりやすく露出していると言えます。当人たちは、当たり前すぎて深く考えることもないでしょうが・・・。

シタデルそばの丘を歩く女性 posted by (C)ほじょこ
わたしたちはみんな乞食なのではないか
エジプト留学日記