また遅い起床。
近所の靴屋さんで靴を買う。
手元の靴が、日本から持ってきたボロボロのスニーカーとエジプトでの歩行に極めて不適格なパンプス、そしてこちらのスーパーで買ったビーチサンダルだけで、先日さんざん値切ってゲットした丁度良い靴がサイズが合わずに足が痛くなり、靴不足に苦しんでいたのです。
スニーカーは元からボロかった上、こちらに来てすぐガムを踏んでしまい靴底が一部脱落。カイロの砂埃で見るも無残な状態です(洗っても無駄なのでもう洗わない)。サイズの合わない靴は、先生の奥さんにあげることにしました。
ちなみに、わたしは足のサイズが25センチで、24.5を越えると途端に品揃えがなくなる日本の靴市場に苦しめられてきたのですが、エジプトでは、とりあえずサイズという点では困りません。ただしこれは「大きいサイズでも豊富に品揃えがある」という意味ではなく、単に小さいサイズも大きいサイズも同じくらい気まぐれにしかない、というだけです(でもざっと見るかぎり38くらいが一番よくある。またお金さえ出せばあるところには何でもあると思います)。そう言えば、近所の店で気に入った靴があり、試着してみたら左右でサイズが違った、ということがありました。
最初に小さいサイズを買ってしまったのは、こちらでのサイズ基準を知らず「こんなもんやろ」とテキトーに手にしてしまったため。25センチなら39くらいがジャストです。
ハイヒールが歩きにくいのは当然で、エジプトのボコボコの道ではほぼ使い物になりませんが、一方でペタンコ靴とかペラペラのサンダルだと、今度は足が砂埃やそこら中に落ちているゴミで汚れる上、ガラスなどが刺さりそうで怖いです。ヒールがあるけれど全体が厚底になったサンダルみたいな感じが、一番使い勝手が良いように思います。
心身ともに状態が悪く、授業前半はボロボロ。
断食離脱しようか考えています。
イフタール後に大分復活するものの、やはり調子は上がらず。
授業後、ブログを見てメールを下さったカイロ在住の女性とお会いする。
具体的なことを書くわけにはいきませんが、本当にお世話になりました。かっちょいい車をこの混沌の極みのような街で乗りこなし、わたしにはまぶしいばかりです。
また、心の中で抱えながら、「さすがに言っちゃったらヤバいよなぁ」と抑えていたエジプトやアラブについてのいくつかの思いを、ズバズバ口にして頂いて、胸がすきました(笑)。いや、余計な刺激はしたくないので、ここにも相変わらず書きませんが。
「学習というのは自分が満足するためのものなんだから、理由なんてなくていい」と言ってもらえたのも嬉しかったです。わたしもまったくその通りに考えているのですが、学習動機を聞かれる度にわかりやすい回答を返せず、いつも悶々としていました。
幼稚園児のようなワタクシですが、今後とも宜しくお願いいたします。
なんとなく今日ぼんやり考えていたことをメモ。
貧富の差が激しい世界では、貧しい人が惨めで気の毒なのはもちろんですが、一方で豊かな人々も「可哀想」だということ。なぜなら、彼らには貧者や弱者を「可哀想」と思う余裕がないからです。
逆に言えば、極貧に喘ぐ人々を見て「可哀想」などと言えるのは、大抵の場合、自分自身は安全圏にいて、テレビの画面ごしに「哀れみ深く優しい自分」に酔っているだけだ、ということです。そういう人に限って、具体的には指一本動かさない。もちろん、そうではない真の「勇猛なる慈しみ」を備えた人物もいますが、大多数は違うでしょう。
極貧がすぐ隣に存在する世界とは、一歩間違えたら自分がそちらに落ちるかもしれない、という世界であって、そうそう「可哀想」などと言っていられる余裕のあるものではありません。しかも、教育のない極貧の人々やストリートチルドレンは、ブラウン管越しに見る「可哀想」なイメージと相違し、ものすごいワイルドで獣なみに厄介です。足蹴にするくらいの勢いがなければ、こっちの身が危ないかもしれません。ここで慈しみを発揮できれば、本当の勇者だと思いますが、ほとんどの人は心身ともにそこまで強靭ではないでしょう。
では、貧者への哀れみを口にし、貧困なき世界を夢想するのは、まったくの子供じみた戯言かというと、そういうわけではありません。確かに、それは「子供」な発想です。そして生きるためには「大人」の発想を身につけなければなりませんし、心で泣きながらでも人を蹴落として生き残るのが「大人」としての責任です。ただ、誰も「子供」のままで生きられないように、完全に「大人」にもならないし、なるべきではありません。そして残った「子供」を証し立てるのが、正に「子供じみた夢想」であって、その夢想だけで生きることはできませんが、まったく捨ててしまってもやはりダメなのです。
まぁ、わたし個人について言えば、ボンボンリベラルの思想的影響下で育ってしまったこともあって、もうちょっと「大人」にならないと話にならないとは思いますが・・。
もう一つ、イスラームについて。
前にも書きましたが、わたしはイスラームに非常に惹かれる一方、生理的・直観的水準では、むしろ違和感の方が先に立っています。そして違和感があるからこそ、これと向き合い、感じたいと思っているのですが、逆に違和感をまったく喪失してしまったムスリムは、本当にイスラーム的と言えるのか、という素朴な疑問があります。
平たく言えば、イスラームにまったくツッコミを入れられないムスリムは、真の意味でイスラーム的なのか、ということです。
もちろん、それが信仰である以上、容易にツッコミが入れられるわけはないし、入れられてはならないのですが、その心理的抵抗にも関わらず、やはりツッコミ欲が沸き起こってこなければ、本当に神様と向き合うことにはならない気がします。ツッコミを入れて、そのツッコミを否定し、またついうっかりツッコんでしまって、という、迷いや試行錯誤があるからこそ、本当の愛でしょう。完全に固定化したものは、狂信であって信仰ではありません。愛とは、それ自身以外に根拠を持たず、ただ愛であることによってのみ愛たるものであり、それが故に、外部に固定点を有さず、常に疑いと背中合わせでなければなりません。
わたしがイスラーム、というか神様というものについて言いたいことは、単にわたしが神様を信じていて、愛している、ということです。それを胸を張って言えれば、他はすべて二次的なことだと思っています(二次的なことがどうでもいい、という意味ではない)。
「そんなものはイスラームではない」というなら、そうかもしれないし、それなら別にイスラームでなくても結構。わたしにはわたしのイスラームがあるし、どの道本当のことは神様しか知らないのですから、死んだ後で答えがわかれば満足です。

子供と水とおっちゃん posted by (C)ほじょこ
エジプトの靴、勇猛なる慈しみ、愛とツッコミとイスラーム
エジプト留学日記