信仰強化月間ラマダーン

 ラマダーンというと「断食」のイメージばかりが強いですが、まず、「断食」というのは、食べないだけでなく水も飲めないし、タバコも吸えません(わたしはなんちゃって断食なので、身体がヤバそうな時は水はちょっと飲んでいます)。そして先生などに伺うと、「一番大切なのは、貧者に施しを与え、悪いことを口にしたり嘘をついたりしないこと」と仰います。嘘をついたり悪事を働くのは、別にラマダーンでなくてもいけないことだと思いますが・・。
 で、実際のところどうなのだろう、とブラブラ観察していると、はっきり言って別に普段と変わりありません。イスラーム地区(古いジャーミゥなどが集中しているエリア)では違うのかもしれませんが、普通の街中では相変わらずそこら中で怒鳴りあいをしているし、間断なくクラクションが鳴り響いているし、到底宗教的な静謐さは感じられません。特に夕暮れ時は、お腹が減ってイライラしているドライバーの猛烈な帰宅ラッシュで、普段より更に喧騒が激しくなっています。
 でも、キチンと礼拝してクルアーンを読む、というのは本当で、小さなマスジドは普段より絶対人が集まっている感じがするし、公共空間で礼拝している人の数も多いし、街の至るところでクルアーンをブツブツ読んでいる人がいます。「信仰強化月間」なのは間違いないでしょう。
 「交通安全週間」というのがあっても、その週以外はいくらスピード違反してもオッケーという意味ではないのと一緒で、信仰強化月間に嘘をついてはいけない、と言っても、ラマダーン以外は悪事三昧でも良し、ということではないのでしょう。
 お腹が減って喉が渇いている状態でクルアーンを読むというのは、本当に効果的だと思います。
 水が飲める「なんちゃって断食」なら、日本にいる時から数え切れないくらいやっていますが、血糖値が下がりまくってフラフラになってくると、うまく考えがまとまらなくなって、意識の統一を図るのに何か口ずさんでいる方が楽になります。
 視覚的で可逆的・象徴的な頭の使い方から、音声的・不可逆的で、リズムに依存した言語の使い方に一回戻る感じです。
 世界中に多くの「労働歌」がありますが、あれも辛い労働を何とか乗り切るためのリズム的な知恵でしょう。
 そんなものとクルアーンを一緒にしたらいけませんが、クルアーンの音声的な美しさは尋常ではなく、特に意識が朦朧としている状態で口ずさむと、脳の奥の方に届くような不思議な感触があります。断食には、物事の捉え方を一回プリミティヴな方向に戻して、そういう深部へのアクセスを容易にする効果があるようです。
 「それはカルト宗教の洗脳法と一緒ではないか」と言われると、生理的な原理としては、本当に大差ないと思います。要は使い方ですし、本人たちが良いと思ってやっているなら、それで結構ではないでしょうか。とりあえずわたしは不満ないです。
 イスラームについて、些細なことですが、最近ちょっとハッとしたことがあります。
 アラブの詩を勉強していて、「山がアッラーを称える」といった表現を目にした時です。
 雄大な山がある。その山に畏敬の念を抱くのは、多分世界中共通でしょう。
 ただ、プリミティヴな宗教感情では、この山自体が神格化されてしまう。日本に限らず、世界中の多くで、こうした発想は見られるでしょう。山を「神様」とまでは言わないものの、山そのものに対する畏敬の念が第一で、それがそのまま自然に対する敬意になっている。
 でも、イスラーム的に言えば、その偉大な山を創ったのもアッラーなのであり、偉大な山とは、その偉大さそのものによって、アッラーを称えているのです。
 この二つの状態の間には大きな飛躍があり、絶対抽象としての一者という、純粋に象徴的な次元が強く意識されなければ、この溝を飛び越えることはできません。
 山という具象、見るからに偉大な山を崇拝するのは自然ですが、そうした世界そのものの背後に一者を感じ、ただそこへ向かって帰依する、というのは、ぼんやりしていて獲得できる考え方ではありません。
 この飛躍には、多分二つの意味があります。
 一つは、「迷信」的なものの排除。「偶像崇拝の禁止」ですが、その意味するところは、目の前のイメージに惑わされたり、過大に評価してしまったり、また特定の人間を神格化してはならない、ということでしょう。山は偉大で、見るものを圧しますが、要は単に土が盛り上がっているだけで、拝んだからといって奇跡が起きるわけではありません。
 これは非常に重要なポイントで、偉いムスリムの先生が時々「イスラームは科学的」と言っているのは、こういう点を強調したいからでしょう(わたしはこの表現はインチキ臭いので嫌いです)。「科学的」という言い方はしたくないし、不適格だと思いますが、「変な迷信に惑わされるな」というか、ぶっちゃけ「落ち着けバカ、よく見てみろ」という、身も蓋もない段階が最初にある、とわたしは勝手に解釈しています。
 もう一つの意味というのは、「落ち着けバカ」と言われて落ち着いて見たら、ただの山だったり、太ったおっちゃんが頭に冠載せてえばっているだけだったり、すべてが平べったく平明に見えるわけですが、そこで「この世に特別なものなんて何もない、人生は無意味だ」という方向に落ちるのではなく、そういう何でもなさ、単に土が盛り上がってるだけだったり、その全体、世界があること自体が、神の偉大さを証明しているのであり、存在の全体が奇跡なのだ、という、一周回ってもう一度世界に畏敬の念を抱く、という段階に至るのではないかと思います。
 これだけ言ってしまうと、「それでは汎神論ではないか」と偉いセンセーからは怒られそうですが、この「一周回って世界そのものが奇跡」というのは、イスラームの考え方に一致しているはず、とわたしは信じています。
 でも、これだけだと影も形もハッキリしなくて、哲学的すぎて、一般大衆は着いて来られません。そして「普通が一番偉大」なのだとしたら、山ごもりして修行している人だけが神を感じられるのではダメなわけで、むしろ普通の暮らし、世俗的な生活の中で、この「存在の奇跡」が感じられないといけません。
 だから、一周回った後にさらに具象に降りてきて、今度は「普通の生活」の中に、具体的な宗教的な意味のネットワークが溶け込んでいきます。イスラームが結婚や遺産相続から商売の仕方まで関与し、また非常に具体的な礼拝手順などにこだわるのは、哲学的なお話なんて到底ついていけない人々に、「存在の奇跡」を感じるチャンネルを与えるためなのではないかと思います。
 以上、まったくの私見で、偉いセンセーのみならず普通のムスリムの方でも「そんなん全然ちゃうわ!」とお怒りの方がいらっしゃるかもしれませんが、世界の片隅で自分なりにイスラームを感じようとした末の妄言ということで、どうか勘弁してやってください。
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ガーマ・ムハンマド・アリー posted by (C)ほじょこ

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