道は誰のものか

 よく言われることですが、日本ではpublicという観念が希薄です。誰のものでもない共有空間だけれど、誰でも入ることができて、一定の範囲で利用できる、という場所を作るのが非常に下手糞です。ダーリン経由で聞きましたが、マンションなどで「みんなの場所」を作っても、結局社交場としてうまく機能することはほとんどないそうです。
 「道は誰のものか」と尋ねたら、日本人もエジプト人も、大抵は「みんなのもの」と応えるでしょう。
 でもこの「みんな」の意味が、大分違う気がします。
 日本で「みんなのもの」と言ったら、それは「誰のものでもない=お上のもの」で、そこに勝手にものを置いたり、椅子を出してくつろいだりしていたら、厚かましい人だと思われて、下手をすると通報されてしまいます。八百屋さんなんかが、暗黙の了解で店の前の道も商売に使っていることがありますが、そういう緩さの入り込む余地も、どんどん少なくなっているように見えます。
 エジプト人では、家の前に椅子を出して涼んでいる人が沢山います。道にテレビを出して、親子で見ている風景もよくあります。というか、道端に椅子を並べてタバコやシーシャを吹かしているのは、暇なおっちゃんのデフォルト状態です。「みんなのもの」だから、まるっきり「自分専用」にしてしまってはいけませんが、「来るものは拒まず」である限りは、一定の範囲で利用できるのが当然視されています。
 これこそpublicな空間の使い方で、それが開かれている限りにおいて、社交的な技量が要求されはするのですが、同時に社会的靭帯を強化し、個々人を社会に繋ぎ止め、つかず離れずな居場所を与え合うのに重要な役割を果たしています。
 前に「別に評価されているわけではないのに、とても『認められた』感じがする」ということを書きましたが、この「承認された感」は、publicな緩い社交空間に負うところが大きいように思います。そこで茶のみ話をしたからといって、何になるわけでもないのですが、そういう何でもないことが「自分にも居場所がある」という安心感を人に与えるものですし、また同時に、仕事でも家族でもないチャンネルで「世の中とつながっている」という感覚を生み、社会に対する緩やかな責任感も醸成するのではないでしょうか。
 もちろん、道路を完全に駐車場にしてしまっているエジプト人の「空間利用」を全肯定するつもりは毛頭ありません。どう考えても、法整備が立ち遅れています。日本的感覚からしたら「道に椅子を出して歩行の妨げをしている」となるでしょうし、それも一理あります。
 でも、日本だって一昔前まではああいう緩さがあったと思いますし、日陰の道でシーシャでも吸っていれば涼めるものを、みんながみんな部屋にこもってエアコンをつけているのが、本当に「合理的」なのかというと、疑問です。
 エジプトは豊かな国とは言えませんが、その経済水準からすると、びっくりするくらい治安は良いです。口先三寸で人をひっかける詐欺商売は横行していますが、強盗とか殺人の類は、欧米とは比較にならないほど少ないと思います。少なくとも、夜中に女一人で歩いていても、普通の場所を歩いている限りは、せいぜい若者に冷かされる程度で、襲われたりお金を取られたりといったことはまずないでしょう。
 こういう倫理意識(エジプト人が「倫理的」とまでは言いませんが)には、信仰と同時に、この「世の中とつながってる感」が大きく寄与しているように思えます。
 世の中とつながっているのは、面倒くさいことです。
 わたし自身、人一倍人付き合いが苦手で、エジプトのこの異様に濃い人間関係の中でなんとか暮らしているのも、「外人」としてのお客さんポジションがあってのことでしょう。エジプト人と結婚でもして社会に溶け込もうとしたら、到底着いていく自信がありません。
 でも、そういう面倒くささから得る安心感には、他で替えがたい価値があるように思います。この安心とか自信には、はっきり言って何の根拠もないのですが、その根拠のない自信に基づいて行動していると、結果としてうまくいく、といのもよくあることです。
 今の日本は、家族がかつてのような強力な機能を失っていて、かつ会社社会で居場所を失ってしまうと(あるいは仕事を失うと)、もう後は冷たい公的システム的なものしか待っていません。下手をすると、システムも拾ってくれません。
 システムがまるで機能していないエジプトもどうかと思いますが、何でもかんでも税金払って仕掛けでなんとかしよう、というのは、一見合理的に見えて、実は無駄が多いような気がします。何より、ちっとも楽しくありません。
 「家族」「会社」「国家」を抜かしてしまうと、あとは空っぽ、という世の中は不気味です。
 一方で、これだけすべてがすべて極端で、多様性を絵に描いて額に入れたようなエジプトでpublicな空間が機能しているのは、多分一番外側で、神様というものがガシャンと柵を作ってくれているからでしょう。神様というのは、そんなにがっちりなんでもかんでも決めるものではないですが、ものすごい大雑把なところで、最低限の倫理を保障してくれます。そういう大枠があって、代わりに中は緩くつながっている。そういう仕組みが、エジプトでは機能しているように見えます。
 日本でも暇なおっちゃんが道端でシーシャを吹かすようになれば、少しは自殺も減るはずです。
 失業者は減らないと思いますが・・・。
追記:
 エジプトに日本のような「儀礼的無関心」がないかと言えば、あります。ただ、そのレベルが日本よりずっと低いというだけで、質的というより量的な差異でしょう。やたら人のことに首を突っ込みすぎるのは、エジプトでだって失礼です。「引き際」が違うだけです。
 わたし自身そうでしたが、エジプト人が誰にでも挨拶するので、そのまま何か会話しなければならない、と思ってしまう日本人が多いようですが、彼らは必ずしも「続き」を求めて声をかけているわけではなく、ただ単に声をかけて、こっちも挨拶を返して、それでお終い、ということが一番多いです。
 もちろん「続き」を欲しがっている時もあるので、見極めに習熟しなければいけませんが、日本では用もない他人が挨拶だけしてくる、ということがまずないので、話しかけられた時に必要以上に身構えてしまう、という傾向があるように思います。
 ちなみに、似たようなことは有名な「値切り」についても言えます。日本人は値切るのに慣れていないため、まったく値切らないか、滅茶苦茶な値切り方をしてキレさせてしまうことがあるようです。例えば20ポンドのものを15ポンドと言って値切り始めるのは普通ですが、いきなり1ポンドと言われたらエジプト人だって怒ります。冷静に考えたら、当たり前のことでしょう。
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空き地でくつろぐ二人 posted by (C)ほじょこ

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