昨日、日記を宿のロビーでアップしていたら(この宿はレセプション前でしか無線LANが使えない)、サウジアラビアの人に話しかけられました。
一目で湾岸の人とわかる風貌で、男性二人連れでしたが、一人はすぐにその場を離れ、残った一人とお話することになりました。
サウジの人に限らず、こちらで初対面の時にされる質問は「どこから来たの?」「名前は?」に続いて「年齢は?」のことが多いです。女性に年齢を尋ねるのは失礼、という感覚はないようで、はぐらかすのに苦労します。そして「宗教は?」というのも、結構あります。この時もそんな感じで話が進みました。
宗教については、カイロ市内で暮らしている限り、そんなにしょっちゅう尋ねられるわけではありません。エジプトはアラブ諸国の中では開放的な方だし、カイロは外国人も多いので、その辺の距離のとり方には慣れているのでしょう。
ただ、わたしの場合、アラビア語を学んでいる、ということがあるので、それを知ると「なぜ勉強しているの?」という質問が必ず来ます。そして仕事目的でもなく大学生でもないとなると、信仰の言葉としてのフスハーを勉強している、という発想になるのは自然なことで、必然的に宗教が話題になってしまいます。
信仰と言える程の信仰を持っていない普通の日本人であれば、「仏教徒です」とでも即答しておけば、その後の面倒はクリアできます。時々「それは信仰と言えるのか、間違った迷信じゃないのか」とか失礼なことを言ってくる人もいますが、そういう人は単にアホなので、相手にしないでいいです。
わたしの場合「仏教徒」でクリア、という方法は取っていません。「文化的には仏教の影響が強いが、仏教徒ではないし、イスラームに関心を持っているが、正式に入信はしていない」と超バカ正直なことを言って、積極的に面倒を引き入れています。なぜなら、そういう信仰のリアリティを探り感じることが、言語学習と並んで、わたしのエジプト滞在の目的の一つだからです。
こう言うと、大抵は「イスラームについて何を知っているのか」「勉強すれば、必ずイスラームが好きになる」と、ちょっと独善的な答えが返ってきます。このサウジアラビア人もそうでした。
彼はイマーム(礼拝で先頭に立つ人)で、ハーフィズ(クルアーンをすべて暗記している人)だそうで、サウジアラビア人の中でも、イスラーム的に特別濃い立場にいる人です。こんな展開で、「イスラーム素晴らしいよ!」という話にならないわけがありません。
正直、辛いです。
「信仰がない? それでは食べて飲んで眠るだけか」「人は死後、天国と地獄に行く。ムスリムでないなら、地獄に行くことになる」等の、聞けば聞くほどイスラームが嫌いになる系のお話をぶつけられることになるからです。
繰り返しますが、「仏教徒です」と即答しておけば、大抵の場合、こんな不愉快な目に合うことはありません。ムスリムのほとんどは、心の中で「ムスリム以外は地獄に落ちる」と思っていても、それを異教徒にまともにぶつけるほどアホではありません。たまにぶつけてくる人もいますが、それはアホなので相手にしないでいいです。
彼は大変礼儀正しい人で、おそらくわたしがアラビア語を学んでいなくて、イスラームにまるで興味もなかったら、絶対こんな話はしなかったことでしょう。ですから、自分で引き込んだ面倒ではあるのですが、やっぱり聞いていて楽しいものではありません。
わたしが彼らに尋ねたいことは一つです。「具体的に、ムスリマになることでわたしの生活はどう変わるのか、もしわたしが立派なムスリマでなかったら、あなたたちはどう見るのか」です。
瑣末なこと(だとわたしは思う)ですが、例えば日本では、普通に働きながら正確に五回の礼拝を行うことはほぼ不可能です。また、ヒジャーブをかぶって会社に行くのも、かなり厳しいでしょう(そもそもヒジャーブは必須ではないはず)。
エジプトでブラブラしていれば、みんながみんなそんなガチガチのムスリムでないのは、すぐわかります。それでも神様を信じているし、自分の信仰に誇りを持っています。それで十分だとわたしは思うし、だからこそ、彼のような「偉いイスラームの先生」より、ダメなムスリムとか普通のおっちゃん・おばちゃんの話を聞きたいのです。
話がズレましたが、「具体的にどうするのだ」という話をすると、大抵の場合、入信の仕方とか礼拝の仕方とか、そんな話になります。そんなことは勉強すればすぐわかることだし、ほとんどは既に知っていることです。
知りたいのは、信仰実践の面での「具体的なこと」ではなく、世俗的な部分での「具体的なこと」です。つまり、わたしがヒジャーブをしないで会社に行ったら、あなたたちは「ダメなムスリマ」だと思ってバカにしないのか、説教してくるんじゃないのか、ということです。でも、そういう疑問に答えてくれる人には、今のところ出会っていません。それは単に、わたしの語学力が拙く、うまく伝えられていないせいですが。
日本の生活についての具体的な情報をほとんど持たない人たちが、一方的な判断でアレコレ口を出してくる、という事態はあり得ますし、そうなったとしても無理はありません。
わたしは唯一の神も世界の創造も審判も信じています。加えて、単に「信じている」というだけでなく、ある種の形式もまた重要である、ということも認識しています。「形だけだから」と言ってしまえば、どんどんはっきりしないものになって、イスラームでなくてもバラバラになってしまうでしょう。形そのものには意味がないかもしれませんが、その意味のない形にこだわり繰り替えすことには、何でもちゃんと意味があります。だから、そういう面を疎かにして良いとはちっとも思っていませんが、それでもなお「信じている」ということが一番大切だと考えていますし、世俗的な社会の中では、できることとできないことがあります。
そういう面を軽く見て、平気で人の信仰実践に口を出すような人を、わたしはまったく尊敬できませんし、そんな人に偉そうに信仰を説かれれば、話を聞けば聞くほど、その信仰から遠ざかることでしょう。
わたしは(ムスリムがほとんどいなくて、大多数の人が特定の信仰を持っていない)日本で生まれ育ち、色々不満はあっても、祖国を愛しています。また、同様に色々不満はあっても、やっぱり両親を愛しています。そして何より、ちっとも宗教的ではなく、もちろんムスリムでもないダーリンを愛しています。
これらと信仰は両立可能だと思っていますが、そこにある困難や苦悩を平気で踏みにじるような人の話には、その人がどんな立派な先生だとしても、耳を傾けようとは思いません。
大分話がズレましたが、このサウジアラビアのイマームさんと話していた時も、そういう疑問がグルグルと回っていました。正直、しんどかったです。
別に彼は、具体的にわたしのバックグラウンドを誹謗したりはしていません。エジプト人とは違い(失礼)、静かな声で穏やかに話す、とても礼儀正しい人です(湾岸の信心深い人は、女性に対して大声で話すようなことはしない)。
でも、極東の世俗的な国から流れてきた、変なアラビア語学習者の気持ちなど、汲もうにも汲みようがないのでしょう。別に彼でなくても、そんなよくわからない取り合わせの人間の心理を、理解できる人などそうはいないですし、してもらおうとも思っていません。
でも、彼はわたしのしんどさを感じてくれたのか「君が疲れを感じているのは、わたしのせいだね。わたしはよく理解していないが、時間をかけてゆっくり考えるべきことだ」と言い、メールアドレスを交換して、お話はそこで終わりました。
繰り返しますが、彼は礼儀正しく尊敬できる人物です。ほんのちょっとしか会話していませんが、何となくそういうオーラを感じます。
でも、この果てしない距離を埋めるのは、簡単なことではありません。
よくわからない孤独感と無力感が、静かに残ります。
追記:
最近つとに感じていますが、わたしはおばちゃんとお話しなければなりません。女性にとっての普通のイスラームな暮らし(時にダメなムスリマの暮らし)を感じる必要があるからです。
ただ、男と話す機会はイヤというほどありますが、女と話すのは簡単ではありません。彼女たちは自分から外国人に話かけることがほとんどにないし(子供を除く)、親しくなって本音を聞きだそうにも、キッカケがつかめません。
なんとかおばちゃんと仲良くなる方法を考えていこうと思います。
追記2:
実は、わたしは「直観的には」イスラームにそんなに親近感を持っていたわけではありません。こう書くと、わたしを直接知る人はびっくりすると思いますが、わたしがイスラームやアラビア語を学び始めたのは、むしろそれが理解し難いもので、どうにもソリが合わなそうだったからです。
そういう違和感みたいなものが、すごく重要です。
違和感は気持ちよいものではありませんが、そういうズレは、必ず自分自身の深い部分から来ているもので、いわばこの違和感は、自分自身に対する違和感だからです。
「何か了解し難い、気味の悪いものがある。それさえなければ、世界はスッキリと整理されるのに。この余計なもの、それはわたしだ」。
現在に至っても、そういう違和感が消えてはいません。ものすごいギュギューと引き込まれ、恍惚感を感じる時がある一方、「宗教って頭おかしいんじゃないの」という不愉快さを感じることもあります。
ちなみに、こちらに来て信仰トークをした人で、一番わたしが素直に共感できたのは、キリスト教徒のレストラン店員ハーニーです。キリスト教、いいですね(笑)。
さらに余談ですが、アラビア語の福音書はめちゃくちゃカッコイイですよ。ほんの一部しか読んでいませんが・・。
サウジアラビアのイマームと話す
エジプト留学日記